14 駄目出し
終わってみれば、なんてことは無かった。
山上君一人に抑えられていた女の子だ。
本職二人がかかれば手間取ることもなく取り押さえられた。
冷静に信乃を抑え、警官に引き継いでも残心を解かない冷静な山上君。
喚き散らし、私にすら害意の目を向け始めた信乃。
一般常識を持っていればどちらを脅威と見做すかなど、実際に動く彼らにとっては明白だ。
喚き散らし、山上君を罵ったおばさんは気付けばどこにもいなくなっていた。
「はい、確保しました。
凶器も彼女のものだったらしく、計画的なものかと。
はい、はい…………はい、お願いします。」
無線で状況を伝えていた警官が応援を呼び、やがてパトカーが到着し、信乃は連行されていった。
車の窓越しの彼女の姿が小さくなっていき、曲がり角で視界から消えたあたりで両手を膝についた。
正直、立っているのが辛い。
「あの、すみません。
お疲れのところ申し訳ないのですが、調書を取りたいので一番近い交番に来てもらってもよろしいでしょうか。」
下を向き、地面を見つめているとそう声をかけられた。
若い、あまり経験を積んでいなさそうな警官。
軽い擦り傷、爪痕が顔についている。
信乃の引っ掻いた痕だろう、何というか、申し訳なくなった。
「はい、大丈夫です。
それよりお顔、大丈夫ですか?」
背筋を伸ばし、姿勢を整えてみれば目線は私の少し下。
助けられたという安心感で大きく見えていただけなのかと思いつき、その事実が少し恥ずかしい。
そんな気持ちを散らすように、警察官さんの頬にそっと指を添えようとして、手を戻す。
(そうか、きっとあの子が来てくれたのも。)
美しさを褒められた。
立ち振る舞いの凛々しさを讃えられた。
だから、それに応えた。
応えた時の笑顔が嬉しくて、私もまたそれに嬉しくなって。
その果てが、今日のこれだ。
(それぞれに出があって、引っ込みがあって。
今日は、私の番、か。)
流されるまま、望まれるままに揺籃の中で纏った誰にも愛想を振り撒く私を畳み、次の私へと衣を変える時が来た。
本来はもっと前に気づくべきだったのかもしれない。
これは私の怠慢だ。
私の身に降りかかるべき咎だった。
それが、驚くほどに静かに幕を閉じた。
彼が居たから。
彼と知り合えたから。
それは、あの春の日。 私があの子を好きになったから。
「縁、か。」
「何か?」
「いえ、何でもないです。
あの子は今、どうしてますか?」
「えぇ、っと。
すいません、お教えできません。」
「あぁ、それもそうか。
こちらこそ、すみません。」
頭を下げ、目をずらす。
もう一人の大柄な警官と話す山上君がそこにいた。
ところどころ道を指し、何かをフリップに挟まれた紙に書き込んでいる警官の質問に応えている。
「彼も当事者なのですが、一緒に行った方が?」
「あ、そうですね、はい。」
緊張しているのか、顔を赤らめてこちらをチラチラと見る警察官さん。
私の体、主に腰と胸に目が行っているのがわかってしまい、つい笑いそうになるが、堪える。
「山上君。」
声をかけると、彼がこちらを向く。
話し合っていた警官もつられてこちらを向くので、彼には会釈をし、山上君の視線を私の目で捉えると、指でこちらにくるように示した。
「何すか。」
「はい、これ。」
すでに通話が切られ、画面がロックになったままのスマホを彼に差し出す。
長時間の通話にも関わらず、私の体温以上に暑くなってはいないあたり、よほど放熱性のいいスマホなのだろう。
なかなか見ない形のレンズに、彼のギークとしての矜持が見えた気がした。
「あ、どうも。」
「うん。
それでね、調書をちゃんと取りたいらしくて派出所に来て欲しいらしい。
君、時間は?」
「今日は、大丈夫す。」
「うん、そうか。」
地面に置かれた紙袋の持ち手に指を引っ掛け、持ち上げる。
箱越しに感じるほのかな革と油の匂い。
つい二、三時間前に感じたそれに懐かしさを感じてしまう。
「はい、これ持って。」
「あざっす。」
スマホを渡し、紙袋を持たせた。
カバンはずっと背負ったまま。
うん、彼の荷物に欠けは無い。
「じゃ、行こうか。」
「うっす。」
頷き合い、山上君と話していた警察官に顔を向ける。
私の視線で察したのか、それではついてきてください、と、先導し歩き出した。
歩きか。
弱ったふりをして、車を呼ばせるべきだったか。
いや、まぁ今日くらいは歩いて行こう。
隣を歩く山上君にカバンを渡し、少し上を向き、歩き出す。
すでに日は沈み、街灯が星の光を薄める濃紺の天蓋が私たちの頭上を覆っている。
鼻孔から吸い込む空気がやけにすとんと胸に入る。
ふと、視線を横に向ける。
これでも胸の形と大きさには自信がある。
背中越しに若い警官さんの目が向いているくらいだ、山上君の方はどうだろう、そう思って彼を見る。
「あぁ、ルカ? ごめん、今日はちょっと遅くなるかも。
ん、いや、野暮用。
いやいや、女装バーも古本屋も関係ないって。マジで。
うん、そういうわけだから、今日は俺の分は良いよ。
うん、お願い。」
…………なるほど、気にしてもいないと。
「ふんっ。」
「っ痛、何すか。」
「私を差し置いてルカと話してるからだよ。」
「うっざ。」
ふん、と息を吐き、彼の腿を蹴った足をそのまま前に出す。
黒のヴェールを戴いた街並が、いつもより近く見えた。
「それでは、ありがとうございました。」
途中からやけに丁寧になった警官さんに見送られ、山上君と二人、道を歩く。
蛍光灯の下から離れ、次の街灯までの仄暗い中を進む。
タクシーを呼ぼうか、どこかの稽古場にでも顔を出して正のエネルギーでも浴びて来ようか。
そんなことを考えながら、しかし体は行動を起こそうとすることなく、そのまま足を前後させるだけだった。
視界に入る背を無意識に追う。
「山上君。」
「はい。」
「お腹空いた。」
ぴた、と彼の足が止まり、それに合わせて私の足も止まってくれた。
二歩ほど前にいる彼が私を振り返る。
少し困ったような顔で、何というか、いつもよりは隔意が湧かない。
「そういえば、何か食べるつもりだったんですよね。」
「うん。
ルカの好きそうな食べ物を教えてもらうつもりだったんだけどね。」
「あー、今から行きます?」
「ん……」
コツコツと鞄の蓋を指が叩く。
特に考えずに口を開いた。
実はそんなにお腹は空いていない。
喉は乾いてる、かな?
いや、交番でお茶をもらったし、そこまでか。
「んー、なんかお店の気分じゃなくない?」
「はぁ。」
困惑に首を傾げる彼に、今思いっきりフックしたら脳震盪起こさせられるかな、なんて思う。
思考がうまくまとまらない。
熱に浮かされた時のように、結論に至るまで一つの思考を束ねることができない感じだ。
立ったまま、歩いたままにうまく口を動かせない。
とりあえず、座りたい。
体の中で、体の外で、どちらも動いてしまっている今のままでは何も決まらず、何も収められないことだけは勘でわかっている。
何かないか、そう考えて辺りを見回す。
それなりの人通り、暗くなった空。
さて、どうしたものか。
そう改めて思ったところ、交番に来るまでの間に通った道を思い出した。
「ねえ、ここに来る途中の神社、覚えてる?」
「神社……あぁ。
祠と自販機しかないあそこっすか。」
「うん。
あそこでいいや。」
さ、行こう。
そう口からこぼし、山上君の横をすり抜けて歩き出す。
大した距離でもないため、道は覚えていた。
近道だ、と警察官が言っていた道を逆になぞる。
無言で歩く私の後ろを、カツカツとブーツの音がついてくる。
どこか現実感を欠いたような視界のまま、薄暗がりを進む。
五分か、十分か、おそらく二十分は歩いていないだろう。
ポツンと一つ、鳥居と祠、その周りの芝生。
小さめな住宅地の公園ほどの広さのそこに、お目当てのベンチと自販機があった。