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よいのくちより ともがたり  作者: ウタゲ
三章 ともにわらえば あしたをつづる
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13 カリギュラ 

「なぁ。」

「お前! お前ぇ!」

「あんたさ。」

「なんだよ、お前!」

「何がしたいんだ?」

「何してんだよ!」


 通常からは大きく逸脱する信乃の雰囲気と、罵声と呼ぶに相応しい絞り出すような声。

 それですら、山上君を揺るがせることはできなかった。

 両足を踏み締め、信乃に正対するその立ち方は、私と信乃の間に厚い壁ができたように感じさせる。

 揺るがない彼が間に立つおかげで、激情に揺れ動く信乃を冷静に見れている気がして、こんな時に何だが、ほんの少し、悔しさが湧いた。

 

「うるさいんだよいちいち! 私がもらってないものを! お前なんかがもらって良いわけがないんだ!!

 返せ! 全部私のだ!!!」

 

 叫ぶ声と、地面を蹴る音が重なる。

 壁のような山上君の背で、何も見えない。

 ただ、彼の背が動くと同時に、腕が振るわれる。

 生々しい肉を叩くような音の後に続く金属音。

 空を染める色が夕焼けから宵闇に変わることで灯された街灯の光を反射するそれが地面に転がる。

 それがなんなのか、よく見た道具であることに気づくのにほんの少しの思考が必要になった。

 

「そんな……」

 

 アイスピック。

 本来人に向くはずのないその針先が地面を転がり、私を指している。

 見慣れたもののはずなのに、あまりにも場にそぐわないそれに、腹の底が震えた気がした。

 

「どけよデブ!」

「いやだ。」

 

 血走った声で、信乃が山上君に掴み掛かった。

 振り回された手が、山上君の背越しにちらりと見える。

 自慢していた、パールを溶かした付け爪、右手薬指のそれが剥がれているのが見えた。

 体ごと突撃してくる信乃の両手首を掴み、山上君は信乃の動きを抑えてみせた。

 おそらく、うまく関節も極めているのだろう。信乃は両手首以外には触られていないのに膝を曲げ、喉を鳴らして威嚇するだけになっていた、はず、なのに。

 

「はな、っせぇ!!!」


 叫び声と同時に、山上君の手が動く、いや、動かされる。

 全身全霊の動きを完全に抑えるのは難しかったのだろう、かすかに呻く山上君の声とともに、私の視界に入らないはずの信乃が足を振り上げたのを感じた。

 がき、と、硬い音が鳴る。

 底の厚いローファー、信乃の履くそれが山上君の足の甲に満身の力を以て振り下ろされた結果だ。

 弾くような音の後、聞こえるはずのない、ぐり、という生々しい肉と骨を捏ねたような音が聞こえた気がした。

 

「い、っダァぁぁ!!!」

 

 踏み込んだ足が踏みつけた山上君の靴。

 それはほんの少しも形を変えず、信乃の踏み付けを受け流した。

 結果、不自然な形に振り下ろされた足は、その足首を本来曲がらないはずの方向へと曲げた。

 靴のつま先、綺麗に磨かれたそれがちかりと街灯を反射する。

 電話越しにも今の獣声が聞こえたのか、俄かに電話口の人の口調が焦りを塗した物になる。

 

『聞こえますか、大丈夫ですか!』

「え、あ、はい、私は大丈夫、です。」

『わかりました、すでに向かっています!

 気をつけてくださいね!』

 

 スマートフォンから響く声に私以上の焦りを感じ、こちらが逆に冷静になっていく。

 浅く、激しくなっていた呼吸が落ち着いてくる。

 耳の奥で自分の心音が聞こえ始め、私は随分と興奮していた事に今になって気づいた。

 

「はい、早く、お願いします。」

 

 一秒も早く、終わらせて欲しい。

 信乃が傷つくだけのこの時間を。

 ルカが悲しむに違いないこのやり取りを。

 それと、ほんの少しだけ、彼が、不憫で。

 

 一瞬、山上君の背中越しに信乃が見えた。

 唇の端から泡が出ている。

 私が褒めて、一緒にいた時に買った色。それを何度も塗り固めた、もはやあの時のかわいらしさなんかかけらもないサビ塗れの汚泥のように赤い色の唇。

 眼からはとめどなく涙が溢れ出て、ガチガチに塗り固められたマスカラを溶かし、目の下に黒い線を描いている。

 チークは粘着質の涙で縦に裂かれ、春につけるには季節を逸したファーカラーにそれらを混ぜた雫がぼたぼたと滴っていく。

 私と買ったものが、私が褒めたものが、私があげたものが、私と選んだものが。

 ぐちゃぐちゃに混ざって、壊れていくのを見せつけられた。

 

「あ“あ“あ“あ“あ“!!!」

 

 確保するものとされる者、肉体的な差異は一目で瞭然。

 一度抑えられてしまった以上、そうそうその力関係が反転するものではない、そのはずだった。

 勢いに任せた感情的な動作の起こりを抑えることが可能になった、そんな相手に抗う術などないはずなのに。

 叫ぶ声が人の少ない道に響く。

 本当に、たまたま人が少ない時間ができただけのこのタイミング。

 邪魔をする者も、被害を受けてしまうような人もいなかったはずの間隙の時間が破られた。

 

「きゃああああ!!!」

 

 絹を割く、と言うには低さと太さが多分に過ぎる声が撒き散らされる。

 先ほどの獣のような信乃の声を聞いてこちらに来たのだろうその年季を称え、倉庫の中で揮発性の液体を称えるためのもののごとき様相をしたご婦人。

 詰まるところ、ドラム缶みたいな体をしたおばさんが山上君に向けて叫んでいた。

 私の視線が彼女を向くと共に、視界を外れた視野の中で、山上君も少し身を捩ったように見えた。

 それと同時に、信乃の色が変わったように見えた。

 途端、バキリと鈍く、粘っこい音がして、続けるように信乃の喉から慟哭が放たれた。

 鳴き声というにはあまりにも野趣あふれる信乃の声は、彼女の受けたダメージによる物だった。

 勢いよく振り上げた信乃の足、股間に向かうそれを透かしながら脛で受けた山上君。

 ぶつかり合った足は、お互いのその太さに違わぬ結果をもたらしたのだった。

 攻撃は信乃、あくまで山上君は受け手。

 だが、男と女で、泣き声を上げたのは女。

 とすれば、観客がどう感じるかなどは考察の隙間すら無いだろう。

 

「誰か助けて! 女の子が襲われてるぅぅぅ!」


 踵を返し、どたどた、うん、ドミュンドミュン?

 いつだったか見せられたロボアニメの足音のような重量感のそれを響かせて、表面積が山上君と変わらなさそうなおばさんが走り去っていく。

 まずい、そう思った。

 膝に力を入れ、少しだけふらつく体に喝を入れ、立ち上がる。

 と、そこで気づいた。

 追って、止めて、その間にまた誰か来たら? 警官が来たら?

 また、山上君が加害者にされてしまうかもしれない。

 結局私はここにいた方がいい。

 そう気づき、そう決めて、少しだけ近くなった彼の背を見る。

 乱入者の叫び、自らを暴漢と喚き散らす声。

 当事者ではない私ですら目を向けてしまったそれらに、山上君は何の反応も示さずに目の前の女性、いや、敵だけに意識を向けて続けていた。

 捻った足首は軽い捻挫ではないのか、痛みに喚く信乃に対して山上君はその手を緩めずにじっと観察し続けている。

 

「信乃!

 もう止めてくれ!」

「嫌あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

 耳をふさごうとしているのか、山上君に掴まれた手を自分側に引こうと暴れる信乃。

 それもできないとわかったのか、自らの声で私の声をかき消しに来た。

 私を求めて私に会いに来て、私の声を否定して自らの声で上書くような今の彼女に、一体何を与えれば救いになるのだろう。

 彼女の望むものを与えても、決して彼女のためにはならないことだけは確定している。

 やはり、私では。

 そう確信し、いくつかのメンタルケアを主業務とする病院を頭の中に思い浮かべたところで、待ちに待った声が胸元と、道の向こうから聞こえてきた。

 

『お姉さん、今現場に着きました!

 もう大丈夫です!』

「おい君!女の子に何をしてるんだ!」

 

 待ちに待った、しかしやはり思った通りの声色。

 だが、山上君は動かない。

 彼の背中しか見えないが、かけられた声に反応することなく、信乃にのみその意識を注いでいる。

 足先の向きも、筋肉の緊張も、立ち位置も。

 目の前の信乃以外に向けるつもりはかけらもないと言うことをどんな言葉よりも雄弁に語っていた。

 

「今すぐその子を放せ!」

 

 そう、それは周りの環境に関わらず、ということだ。

 警官と、野次馬と。

 先ほどの叫んでいた女の人、制服を着た警官二人。

 それだけしかこの場に部外者がいないことは幸運だったんだろう。

 善意の行動者がか弱い女の子を無理矢理助けに動くことがないのだから。

 

「先輩、アレ。」

「んな、凶器……っ!」

「さっさと捕まえてよ!

 何してんのよ!」

 

 乱入者達が各々の価値観で自分勝手に騒ぎ立てる。

 なるほど、事実は小説よりも、と言うわけか。

 喜劇の導入もこのような認識の齟齬によるものが多かったはずだが、あぁ、なんというか、下品な言葉になってしまうが、我が身に降りかかってみれば、胸糞が悪くて仕方ない。

 山上君に対し言葉をかけるだけでなく、今にも飛びかかりそうなその警官達の姿に対し、恐れと安心感以上に、怒りが湧いた。

 すがるように握っていた山上君のスマホを改めて握る。

 通話時間はそれなりに立っていて、連続稼働もそれなりのはずなのにいまだに私の体温以上の温度を持っていないそれの感触が指先に新鮮な刺激になった。

 一歩、足を出す。

 強張っていた膝は油でも点したように滑らかに動く。

 スマホをかざし、近寄る彼らと山上君の間に立つ。

 

「到着、ありがとうございます。

 通報したのは私です。」


 私と信乃の間に立つ山上君を背に、腹に力を込め、目の奥を燃やし、いつもの私のフリをする。

 自信を思い出し、姿勢を作り、表情を選び出す。

 低く、強く、透る声を。

 観客の耳に残るように舌から転がる声。

 視界に入る三人の足が止まる。

 同時に、見ていないはずの信乃が私を見たことを感じた。

 

「私は篠田恭香、彼は山上元。」

 

 継ぐ言葉を出していいものか、ぐ、と一度唇をひきしぼり、覚悟とともに言葉を紡ぐ。

 

「彼に掴まれている信乃、彼女に襲われて、山上君に助けてもらいました。」

 

 背に刺さる視線が失望と愕然を孕んだのを感じる。

 私は今、自分の意思で信乃を切り捨てた。

 すぐにでも撤回したくなる。

 誰にでも素晴らしい人間でいるために、自分の社会的に正しい立ち位置を示すために。

 だが、自らの意思で切り捨てたことをしっかりと認識する。

 

信乃(あのこ)を、捕まえてください(お願いします)。」

 

 声に震えはない。

 いい顔をした、いい顔しかできなかった先輩を、ここで捨てる。

 その覚悟を持ち、決別の言葉を口にした。


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