11 明転
夕闇が街を覆うには少し早く、十分に青空と呼べる色が私たちの上空を彩っている。
暑さで汗が滲むこともない、とても気持ちのいい気温。
夏に向かい、日々太陽に恨み言を言う人間が多くなるこの時期には珍しいその空気の中を歩く。
好悪で言うならばあり得ない、関係の深さで言うのならば必然の。
そんな間柄の私と山上君の間には、驚くべきことに弾みはしないまでも会話による意思の疎通は取れていた。
「そうか、大学生活を楽しんでくれているんだね。」
「まぁ、はい、認めたくないけど、ルカもすごく助かってるって言ってますし。」
「へぇ、ルカが?」
「はい。」
「センパイのお陰で勘違いされて、男の人に声をかけられることが少なくなったって。」
そうか、そうか。
私は誇らしげに頷き、瞼の裏のルカの笑顔に微笑み返す。
直接ありがとうと言われることはあるが、人伝にこういう感謝の意を再確認できるのも、これまた乙なものだ。
「半分は誉めてないですよ?」
「あの子に半分でも誉められてれば充分さ。」
分かってて、あえて話の打点をずらす。
こうすれば彼の思い通りの範疇を外してやれるからね。
想定内の反応をしてやるのは、まるで彼に糸を引かれているようで悔しくて。
少し斜めの反応で彼への反抗をして見せる。
「でも、そうか。
やっぱりルカはご家族とも仲が良いんだね。」
「はい、結構話に出てくるんじゃないですか?」
「あぁ、それはもう。」
服や小物、それを褒めるごとに祖母の、母のと話をしてくれた。
楽しそうに話してくれる物だから、会ったこともないお義母様達に対し、私まで好意を抱かせてくる。
好きな物を語る姿は、やはり人を幸せにする。
「ふふ、本当にあの子はどこでもあの子なんだね。」
「まぁ、そうですね。」
お会いして挨拶するのが楽しみだなぁ、そう言いそうになるのを舌の根で抑えた。
「それで、どこに向かってるのかな?」
「あぁ、もうちょっといったところの、タコス食べ放題に。」
「は?」
何をほざくかこの男は。
ルカの好きなものと言ったら精緻に編み込まれた砂糖細工やふわふわのメレンゲクリームで形作られた見た目に可愛らしい洋菓子に決まっているだろう。
まさか、自分が食べたいものを奢らせようとしているのではあるまいな。
そんな私の思いが目線に乗せられたのか、つい目を細めて彼を睨む私に困ったように眉を寄せながら頬を掻いた。
「いや、マジですって。
この辺りでルカの反応が良かったご飯っていうと本当にタコスで。」
「正直、信じられないんだけど。
お弁当見せてもらったけど、あの子の食べてる食材って基本的に良いところのものばっかりで、味も繊細なものばっかりだったよ?」
「知ってますけど、それとは別にこう言うのも好きっていうか、最近はよく体動かしたから炭水化物とタンパク質をよく取っててですね。」
「何だいその男子高校生みたいな理由は。
別にあの子は運動系にも入ってないはずだけど。」
まぁ、はい、と苦笑しながら山上君が返す。
ルカとの付き合いはそんなに長いわけでもないが、運動系サークルに所属していないことぐらいは知っている。
普通の学術系サークルの話はしたことがあるし、紹介もしたことがあるのだから。
「いや、サークルとかチームとかじゃないんです。
あいつの衝動的なやつなんですよ。」
「衝動?」
何か、スポーツ観戦してみたり、体を動かすことが必要になったとかだろうか。
ここ最近のルカを思い返すが、特段体系や肌色に変化は無かった。
ダイエットが必要なわけはないし、運動のために日に焼けるようなことも無かったはずだ。
いやまて、確かウエストがほんの少し締まった時期があったような……
「ちょっと前、あいつ手袋してませんでした?」
「そういえば、確かに薄めの手袋をしてた時期があったね。」
ルカの肌によく合う、白い手袋で褒めると照れた顔がとてもチャーミングだった。
「あれ、トスバッティングのしすぎで捲れた手を隠しててそうなったんです。」
「はあ!?」
トス、え?
「テニスの漫画で『芯を食った時には手に感触が残らない』っていうのを読んだらしくて。」
ふぅ、と息を吐く山上君。
疲れたような彼の横顔に、私は驚愕で歪めた顔を必死に戻した。
「そこから色んなスポーツの取材記事なんかも読んで、ゴルフに卓球、野球で同じことがあるって経験者のおじさんにまで話されたらもう止まりませんでした。」
くつくつと、その時を思い出すかのように苦笑する山上君。
新しい興味の対象を見つけた時の、あのワクワクした顔で、キラキラと輝く瞳で、経験者のおじさんから聞き出して、山上君にその話をしたのだろう。
「ゴルフでいいじゃんって言ったんですけど、ああ見えて野球にも興味ありますからね。
で、家の物置からバット引き摺り出してきたわけです。」
「へぇ、それは知らなかったな。」
スポーツ。
ルカと話す時は大抵サッカーの話だった気がする。
野球の話は話の導入に使うぐらいであまり深く話をしたことは無かったが、そのあたりはあの子の気遣いだったのだろうか。
「バッティングセンターに行く前にフォームを作りたいってことで、動画で多角チェックしながら何日かかけて基礎作りしたんですよ。」
「えぇ……」
割としっかりと土台を作ってる。
ルカって結構アグレッシブなのか。
いや、それなりに推しが強いところもあるし私の話を聞く時もいろんな質問をするあたり、好奇心も旺盛だとは思っていたが。
それにしても、山上君だけはそんなふうに巻き込むことを気にしていないというのは羨ましいような、妬ましいような。
「そんな感じでスイングしまくったんで手袋してたんですよね。」
「そう、か。
深窓の令嬢というには活動的だと思っていたけど、そこまでとはね。」
ん?
スイング、ルカの胸で?
それをトスバッティングの距離でずっと見ていたのか?
弾む体、舞い散る汗、粗くなる息遣いに息の上がる表情。
それらを、見続けていたというのか。
どれだけの徳を積み、金を積んだらその席に着けたのか。
やはりこの男は敵だ。
いずれ、何かあった時には正式な作法に則った何らかの決着をつけなくては。
「それは」
「恭香さん。」
山上くんに一つ釘でも指しておこうか。
そう考え、言葉を発したところに、私と彼以外の声がかぶさってきた。
聞き覚えのある声に、そちらを向く。
「恭香さん。」
笑顔、と言っていいのだろうか。
眉は山なり、目の形も、口元も三日月のように細められている。
パーツの形で言えば笑顔と言うに難くないはずなのだが、私にはその顔を笑みと呼ぶ気にはなれなかった。
じり、と背筋の中程。背骨の中から電気が走ったような感じを覚えた。
女の子を相手に感じたことのない感覚、しかし覚えのある感覚。
舞台で《《やらかす》》直前の、失敗が私の目の前に形を持って現れる時のあの感覚だ。
「何でですか。」
丁寧に手入れされ、つややかな光沢を放つボサボサの髪。
何度も塗られ、横から見ても厚さを感じるほどの付け爪。
不必要なほどに重ねられたチークとアイシャドウ。
私の知る頃と、何一つ変わらないゴシック調の服。
「なんでなんですか。」
一時期世話をしてあげた高校時代の取り巻きの女の子。
宮城 信乃だったか、そう、国語が苦手で、英語が得意な随分と依存気質だった女の子。
あの年頃の女の子によくある、潔癖と憧憬とを混ぜ合わせたせいで男子嫌いを拗らせたタイプの男嫌いな女の子。
特に濃い付き合いをしたつもりはない、時折会って、話して、買い物をして。
その程度のよくある世話焼きをして、年月を経て学業に専念したり卒業したりして自然に会わなくなった子だ。
もちろん、縋りつかれた。それでも清算できたと思っていた。
話し合って、お互いに整理をつけて。
そのはずなのに。
「なんで男なんかと話してるんですか!!!」
過去が、狂気を孕んで、私を追いかけてきた。