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よいのくちより ともがたり  作者: ウタゲ
三章 ともにわらえば あしたをつづる
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08 ギニョール

「ねぇ、どこか行ってくれない?」

「いやですけど。」

 

 とある市営の美術館。

 これぞという売りもなく、時折特設が話題に上る程度のそこで、私は会うことを最も望まない男と一緒にいた。

 一枚の睡蓮の絵。

 クロード=モネの連作と同じモチーフながら比較することも恥ずかしいほどに知名度に差のあるそれ。

 どちらかといえば象徴主義的な色の強いそれは、素朴な色使いと写実的な風景、ギリギリ破綻しないバランスの色使いを用いていて、何も考えずじっと見ていることができる、柔らかく目に映り、心に穏やかに迫りくるものがある作品だった。

 風を模った花弁と、空を含んだ水面。

 苦悩に苦悩を重ねた無名な作者の最後の作品で、以降は何枚もの絵を断筆することとなり、結果的に遺作になってしまったという作品だ。

 作者の意向で、この絵の前は人が休める場所にしてほしいと懇願されたらしく、この美術館でも作者の遺志を尊重し、絵の幅に凸になっている壁に飾られた絵の前には、屋内にも関わらず座り心地の良い木製の三人がけのベンチが置かれている。

 

「こんなに素晴らしい絵なのになぁ。」

 

 小さく漏らし、はぁ、と大きく息を吐く。

 が、私の座るベンチの反端に座る男に動揺は無い。

 座面越しにも何の動きも感じない。

 世の男女たれば私が動けば大なり小なり反応を返して然るべきなのに、こんな美的感覚の薄い男に隣にいて欲しくない。

 吐いた息に合わせ、細く長く息を吸う。

 空気を挟んだ反対の座面から漂う落ち着く紅茶と草の香りに、ちょっと苛立った。

 男らしい汗臭さもなく、爽やかというには落ち着きがあり胸にほうと落ちる、強さのない穏やかな良い香り。

 ルカの匂いの感じに似ているのが、実に腹立たしい。

 どうせなら、私の美意識に反しまくるような香りになってくれている方が、よっぽど気持ち良く蔑めると言うのに。

 ブルーデニムのズボンとリネンのシャツ、ライトグリーンの化繊のジャケットは特徴的な引っかかりを出さずに、しかし綺麗に彼を納めている。

 清潔感という点でも変な減点はできないときた。

 本当に、小癪な男だ。

 

「後から来たのにうっるせえ女だなぁ。」

 

 ポツリとつぶやく言葉に、私の目が細められる。

 声量はないのにしっかりと耳に響くのも、気に食わない。

 太くて伸びる声。

 人の耳に入りやすく、弾かれにくい。とてもいい声だ。

 私の話し方を揶揄するように微妙に真似てくるのがとてもイラつかせてくれる。

 この声質は天性か。

 半年ほど集中的にボイトレをさせたら、ナレーターとしてはとてもいい声になるかもしれない。

 いろんなところで聞くたびにイラつくだろうから、私は絶対に薦めないが。

 

「私は先週ずっとこの絵を見たいなと思っててやっとここに来たんだ。

 最初に見た時から何度かは来てる。

 休みたいならもう少し先の自販機横にベンチがあるよ。」

 

 ミルクティーと七番のアイスがおすすめだと言って薦めてやるも、後で行きますわ、と適当な口調で返される。

 さっさとどこか行けと言う言葉を優しくオブラートに包んでやったと言うのに、この男はどこまで鈍いのか、もしくは鈍いふりをするのか。

 

「俺だってたまたま来ていい絵だなって思ったんですよ。

 いつも見てるんなら今日くらい譲ってくださいよ。」

 

 へぇ、と、彼の言葉に少々感嘆の意を込めた音が漏れる。

 SNSで取り沙汰されるような美術館でもないし、会報に載ったことだってはるか昔。

 地図アプリでも紹介が省略されることすらある貧相なこの美術館にたまたま足を踏み入れ、この絵を見るとは。

 運と感性、両方ともしっかりと持っていると言うことか。

 

「今日だけなら譲ったげるけどね。

 次来た時君は居ないと言い切れるのかい?」

「…………」

「ほら、即答できない。

 だから、どいてって、言・っ・て・ん・の。」

「なんでそっちの言い分だけ聞かなきゃいけないんですか。

 俺だって初めて見たこの絵をもう少し見たいって思ってんですよ。」

「だからそれこそ後にしなって。

 私が居ない時でも見計らって来てよ。」

「そっちがやんなさいよ。」

「あ?」

「は?」


 何故か、そう、何故かはわからないが、やたらと言葉のドッジボールがリズムよく私と彼の間を行き交う。

 私はここまで人に悪意のある言葉を言うタイプの人間ではないはずなのだが、彼には遠慮なく暴言を吐けてしまう。

 一方、彼の言葉にも不思議なことに苛立ちはあれど嫌悪感は湧かない。

 嫌いなら離れればいいだけなのに、不思議と私は彼に暴言を吐くことを望み、彼の言葉を打ち返すことを選んでいる。

 今までに感じたことのない怒りを下敷きにしたようなこの関係性に私自身がタグをつけられないままお互いの言葉のやり取りがヒートアップし始めたその時、私たちの後ろから声がかけられた。

 

「オキャクサン。」

 

 独特なイントネーションのそれは私たちの座るベンチと通路の壁、およそ三〇センチほどの隙間から放たれた。

 気づかぬうちに背後に立っていたキュレーターのお婆さんの言葉に、今までそこに人が居たことに気づけなかった私たちは揃って驚きながら彼女を見た。

 

「絵の前デ喧嘩、ダメね。

 絵の具、悲しい。

 他のお客さん、メイワク。」

 

 腰が曲がり、杖をつくその姿はヒョロヒョロとしたお婆さんなのだが、カタコトの声は不思議と圧を感じさせて来た。

 自然とベンチから立ち上がり、おばあさんに向けて頭を下げる。

 角度は九〇度、最敬礼のつもりで腰を曲げ、小さくだがおばあさんにはしっかり届くようにごめんなさい、と謝罪の言葉を放った。

 口から出した言葉に重なる声。

 せっかくの謝意が薄れたような気がして横を見る。

 腰を曲げた山上君が同じように私を見ていた。

 なんだ、やる気か?

 背を伸ばし、目を細め、彼を睨め付ける。

 肩を落とし、めんどくさそうにしながら私を見る山上君。

 と、そんな私たちの間からカツン、と床を叩く音がしてそこに視線を引き寄せられた。

 先ほどから私たちを牽制するキュレーターの丸メガネを白く光らせたお婆さんが杖頭に両手を重ねたまま、こちらを見下げた目で見上げていた。

 

「あ、その。」

「俺たちその。」

「もう、今日ハダメよ。」

 

 言い訳するような私たちの言葉を叩き切り、お婆さんは左手を杖から外し、順路方向に指を指す。

 有無を言わさぬ磨崖仏のような立ち姿と圧迫感に私と山上君は指し示された順路通りに美術館を後にした。


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