71 嬉しかった
「……」
呆けたような大木さんの顔、視界の奥で元たちが足を止めたように感じたが、今それには意識をさけない。
俺の意識はただ、目の前の女の子にだけ注がれていた。
「っ……」
堪えるように下唇を噛む大木さん。
嫌だったのだろうか?
それとも、嬉しい?
どんな感情か、わからない。
試験のような、てごたえで大凡の結果がわかる物ではない、人相手の行動。
聞きたくなる、質したくなる。
でも、そこも我慢。
大木さんは、今必死に言葉を選んでいる。
冗談と笑うわけでも、軽く流すわけでもない。
俺の言葉を理解した上で、その言葉の返事を、きっと必死に考えている。
だから、待つ。
「わ、たしで、っ……!!」
握られるスカートに、あぁ、しわが寄ってしまう、とつい思った。
下を向く大木さんの頭頂部、顔が見えない、それがとても不安だ。
「う“う“ん“!」
左右に振られる首。
ばくん、と心臓が跳ねる。
靴のつま先、鞄の揺れ。
大木さんの体、声、それら全ての情報にアンテナが過剰に反応してしまう。
だから、がばり、と顔を上げたその動作に少し体が竦んでしまう。
野暮ったい伊達メガネは膝に当てられた手に握られていた。
少しだけ赤く充血した何一つ遮るもののない目は、俺の目を真正面から捉えていた。
「よろしぐ! お願いします!」
いきなりの告白に対する問い直し、謙遜からの相手の好意確認。
いくつもの選択肢と葛藤があったんだろう、それでも、大木さんは俺の言葉に、真っ直ぐに答えてくれた。
言葉の意味を、噛み締める。
体の熱が、顔の熱が、一気に消え、それと同時に心臓の辺りに熱が集まった。
人間の思考は、脳が掌る。
そんなこと、今の日本人なら小学生だって知っている。
なのに、心の位置を聞いた時、人は無意識に胸を選ぶ。
それは、こういうことが昔から起こっていたと言うことなのだろうか。
嬉しさが、興奮が、幸福感が、《《胸の奥から》》湧いてくる。
握ってもいなかった手が、固くなっていた。
背中にかいていた汗に、今気づいた。
恋というものかは、わからない。
愛と呼べるのかも不明だ。
それでも、告白をして、受け入れてもらった。
初めての恋人が、改めて目に映る。
体の前で強く握られた両手は、俺の告白に答えるためにぐるぐると頭を巡った言葉を押しとどめるために握られていたのだろう。
目を開き、こちらを真っ直ぐに見つめる目の上にある眉は、笑う形だ。
その目から、ボロボロと玉になって涙が溢れ続けている。
泣き顔を愛しいと思うのは、初めてだ。
涙を見て温かい気持ちになるのも、初めてだ。
大木さんの足では三歩分、俺の足なら一歩と少し。
その距離を縮め、両手を大木さんの背中に回し、涙あふれる顔を俺は自分の胸に押し付けた。
「大木さん。」
自然に漏れ出た名に、彼女は顔を俺の胸におしつけながら、ぐいぐいと顔を振った。
俺の胸元でシャツを握る手がきゅう、と握り込まれ、俺と彼女の隙間が埋まる。
「桃で、良い……」
「桃。」
ぽふ、と頭が少し離されて、またおしつけられる。
なんとなく、手が動いて頭に乗せる。
掌に感じる髪の感触と、それ越しに感じる温度にどぎまぎしてしまう。
んへへ、とよく聞いた笑い声が漏れる。
聞けた声がうれしくて、こっちの口も笑みの形になってしまう。
「もっと。」
「俺は?」
「もっかい、呼んだら……」
ほんの数言ごと、たった数回のやり取り。
それだけで、俺と桃の間の何かが変わった。
元と詞島さんが笑っている気がする。
けど、そこにはまだ意識が裂けない。
仕方ないだろう?
今、俺は世界で一番大事なことをしてるんだ。
一度息を吸い、吐く。
こちらも笑い声が漏れそうになるところを我慢し、頑張って声を出す。
「桃。」
腕に力を入れる、優しく抱けるように力を抜く。
不思議な感覚だった。
自分の腕の中にいる誰かを、しっかりと抱きながら傷つけないようにする。
茶化したり、バカを言う余裕なんかかけらもない。
ただ、胸と、腕の感じる温度が全てだった。
彼女なんてすぐできる、気が合ったらOKよ。
まずは体の相性から。
彼氏彼女がいた中学時代の知り合いを思い出す。
多分、俺と彼らとではアプローチが違って、それはきっとどちらがいいと言うわけでもないものなんだろう。
ただ、俺は今がいい、そう思った。
元と会い、詞島さんを知り、桃と会って、元と詞島さんの関係を尊く、羨ましく思った。
古賀との一連の経験で壁を作りそうだったそれを、当の古賀に止めてもらった。
そして、改めて元たちの姿を欲している自分に気づいた。
そんな、大人たちからすれば一時の、俺の人生からすれば長い時間をかけた道の一区切り、そこに恋人が立っていた。
うん、俺は、今がいい。
「桃。」
柔らかな髪に顔を埋めて、名前を呼んでみる。
胸から俺の背に回された細く、短い腕が力を増した。
痛みはない、暖かさと嬉しさと愛しさがあった。
「秀人君。」
俺を見上げる目が、視線とぶつかった。
赤いフレームで、野暮ったいいつものメガネを介さない視線。
揺れる瞳が自分を見つめ、笑顔に変わることが、たまらなく嬉しかった。