第1話 悪役令嬢からの転生
「ジェナ・キャドバリー、お前を国家反逆罪で斬首刑に処す」
──ああ、やっと終わりまで来たわよ、ジェナ。
長かった。本っ当に長かった。
いくら前世の自分が大好きだった小説の世界に転生したからとはいえ。
悪役令嬢のジェナとして十七年もその人生をなぞって来たんだもの。
さすがにしんどかったわ。
何故私がジェナに転生したのかはわからない。
でも、小説の世界を壊すわけにはいかない、歴史を変えてはいけないと、私は小説のジェナを演じきったのよ。
王子に愛されるヒロインに嫉妬するフリをして執拗に虐めたり、暴言を吐いたり、悪事に手を染めるのは心がとても痛んだわ。
「この悪女が! とっとと死んじまえ!」
「地獄に落ちろ! クズめ!」
処刑台へ向かう私に、民衆から野次と石が容赦なく飛んで来る。
大きめの石が額に当たって、血が流れる感覚がした。
……ちょっと、さすがにひどくないかしら。
石を投げるのはいいけれど、もう少し小さめの石にしてよね。どうせもう死ぬんだから。
そう心の中で毒づいて、処刑台の階段を上る。
私に付く兵士が、濡鴉のように黒い私の髪を引っ張る。
無理矢理顔を上げさせられると、私の処刑を今か今かと待つ民衆が憎悪と侮蔑と好奇心を向けて私を睨み付けているのが目に入った。
大好きな小説の世界をこの身で追体験出来るなんて、幸運なのかもしれない。
でも、どうせなら王子に愛されるヒロインに転生したかったわ。
悪役令嬢のジェナも、演じている内に情が移って嫌いではなくなったけれど……。
常にヒロインへの悪意と嫉妬と劣等感に苦しんでいるキャラクターだから、まあとにかくしんどかったわ。
もうこの小説の世界には二度と転生したくないわね。お腹いっぱい。
それで、ようやくジェナを演じた私の転生人生は終わりを迎えるけれど、やっぱり死ぬのは怖いわね。
前世は交通事故で何が起きたのかもわからない内に死んだから、そこまで恐怖心はなかったのよ。
でも今、斬首刑でしょ?
首、はねられるんでしょ?
──いやいや怖い怖い怖い怖い。怖すぎるわよ!
さっきから足の震えが止まらないわ。
ドレスの裾で隠れているけど、情けないほど足ガックガクよ。ちょっとした地震が私の足元で起きてるわよ。
私の髪を掴んでる兵士も「何か揺れてるな……?」って呟いてるもの。
た、多分痛みは一瞬でしょうけど、自分の首が転がる姿を想像するだけで汗が止まらない。
喉がカラカラで水が欲しいわ。
「…………」
……いえ、違うわ。
私は今ジェナ・キャドバリーなのよ。
小説の中のジェナはもっと堂々としていたわ。
処刑されるその時でさえ、彼女は人前で情けない顔を晒すことはなかったの。
最後まで立派な悪女だったわ。
私はこの小説の大ファン。
私が、ジェナというキャラクターを壊す訳にはいかない。
唇をギュッと結び、恐怖心に無理矢理蓋をする。
そして悪役令嬢ジェナの最後のセリフを声高に叫んだ。
「私はジェナ・キャドバリー! ここで死んでも、私の魂が死ぬことはない! 王子もあの女もお前達クズ共も、皆纏めて呪い殺してやるわ!」
──そして私、ジェナは処刑された。
もし来世があるなら、もう人間の面倒くさいゴタゴタに巻き込まれたくない。小説以外の世界に生まれたい。
つまらなくてもいいから、平凡で穏やかな人生を送りたい。
もう首をはねられたくないと、私は死ぬ間際にそっと願った。
*
「──い、……おい、大丈夫か?」
誰かが、私の身体を揺さぶる。
眠りから無理矢理起こされた子供のように「うーん」と唸りを上げ、瞳を薄く開く。
水中に揺蕩っているように、視界がぼんやりとしていて何も見えない。
「レグラン、意識はあるようだ。水を持って来てくれ」
「かしこまりました」
男性の声が二人、私の頭の上で会話を交わす。
レグラン……?
そんなキャラクターいたかしら……。
全く回ろうとしない自分の頭で思考を試みる。
覚醒には程遠いようで、全然考えられない。
身体が鉛のように重たい。
地面にへばりついて動けない。
死んだら幽霊になって重力なんて関係なくなるんじゃないのかしら。
幽霊も重力には逆らえないの?
そうだとしたら結構幽霊ってのも辛いわね。
「水、飲めそうか? 無理にでも飲んだ方がいい」
私は誰かに抱き起こされ、口元に水が注がれる。
……ああ、そうだった。
私、とても喉が乾いていたの。
死への恐怖で喉が張り付いていたのよ。水が飲みたいなって思っていたの。
ありがたい。水が身体に染み渡る。
生き返るわ……。
………………ん? 生き返る?
そもそも私、たった今処刑されて死んだはず。
どうして水が飲めるの?
首から上、ないはずよね?
どうしてこんなに身体の感覚があるの?
誰かの腕が私を支える感覚も、水が喉を通る感覚も、生きているとしか思えない。
……まさかまた、転生した!?
私は瞳をバッと開いて、身体を勢いよく起こす。
水を持ってポカンとする、サファイアのように綺麗な蒼い瞳を持った男性とバッチリ目が合った。
「…………。だ、誰……?」
私の大好きな小説のキャラクターに存在しない顔を見て、思わず聞いてしまう。
触れなくてもわかるほどサラサラしていて、シトラスに似た鮮やかな黄色の髪が、風に揺れている。
貶すところが全く思い浮かばないぐらいに整った男性の顔は、絵本の中の王子様がそっくりそのまま出てきたみたいだった。
「……まずは、自分から名乗るのが礼儀だと思うが」
男性はその綺麗な顔を不快に歪めた。眉間に皺が刻まれる。
目の前にいる男性の身なりはかなり良い。
上質なネイビーブルーのコートに、皺ひとつない白いシャツ。グレーのタイにはキラキラと輝くシルバーのタイピンが付いている。
どこかの貴族様なのは、ひと目でわかる。
「えっと……」
状況的にどうやら助けてもらったみたいだし、男性の指摘通り確かに失礼だったかもしれないと反省する。
謝って名乗ろうとするも、私の唇は一瞬開いて止まった。
……そもそも私、今誰なのかしら?
鏡がないから今着ている衣服ぐらいしか自分からは見えない。
でも、少なくとも貴族のする格好じゃない。
飾り気のないシンプルな淡い水色のワンピースは所々ほつれているし、どう見積っても平民が着るような服にしか見えない。
ペンダントもしているけれど、トップ部分には何の変哲もない白い宝石が一つあるだけだ。
正直言って高そうには見えない。その辺の露店で売ってそうなものだ。
そしてジェナは長い黒髪だったのに、私の視界に映るのはミルキーブロンドの髪色。
手でわしゃわしゃと髪に触れると、肩元くらいまでしかないようだった。
少なくとも、私は多分ジェナではない。声も全然違う。
……じゃあ、誰なのかしら。
私がすぐに名乗らなかったら、男性の眉間の皺がもう一つ増えた。
「……どうした? 名は?」
「名前……」
衣服のポケットに何か手がかりがないか探してみるけれど、何も持っていない。
持ち物を落としていないか周りを見てみるけれど、何も落ちてない。
……手がかり、何もないわ。
名乗る名が、ないわ……。
困ったわ。何かこの人無愛想で少し怖そうな男性だし、名乗らなかったら怒るかしら。怒るかも。というか、既にちょっと怒ってるかも。
でも黙っていると余計にダメよね。
後で手がかりが見つかるかもしれないし、とりあえず今は素直に白状しなくちゃ……。
「……大変申し上げにくいのですけれど、名前がわかりませんの」
「え?」
「ですから……私、自分が誰だかわかりませんの」
目の前の男性は私の返答を意外に思ったのか、僅かに目を開く。しかし、すぐに疑うような表情へと変わった。
あなたの気持ち、とてもよくわかるわ。
今の私、どう考えても不審者極まりないわよね。自分でもそう思うわ。
こんな何もない道端で倒れていて、持ち物も何もなくて、自分が誰だかわからないとのたまう得体の知れない女。
ええ、紛うことなき怪しい人間ですわ、どうもありがとう。
「……君は記憶を失っているのか」
男性が私に尋ねる。
記憶を失っている……のとは少し違う気はする。
似たようなものではあるから、否定はしないことにするけれど。
実は前世で処刑されてまた転生したみたいなんですー、なんて言ったら、間違いなく頭のおかしい奴認定を受けてしまうわね。
私が黙っていると、男性は近くで控えていた、従者のような雰囲気の別の男性に視線を移し、何やら目配せをした。
……ああ、そういえばさっき「レグラン」とか言っていたような……。
あの従者っぽい人がレグランという人かしら。
その従者らしき男性は一度頷くと、私に近付いて屈む。目線を私に合わせた。
「失礼。あなたの身元がわかるまで、私共で保護させて頂きます」
「ほ、保護ですって……?」
「ご安心を。私共はハイルドレッド王家に関わる者ですので、警戒される必要はありませんよ」
ハイルドレッド……?
全く聞いたことがないわ。
やっぱり私の好きな小説の世界ではなさそうね。
──というか、今。王家って言った?
言ったわよね? 王家って、あの王家よね。
王の家って書く、あの王家よね。
王家に関わる者って、つまり、つまりは……。
恐る恐る水を飲ませてくれた黄色の髪の男性を見る。
その視線ですぐに悟ったのか、男性は淡々と私の頭の中の疑問に答えてくれた。
「ハイルドレッド国王太子、ライナス・ハイルドレッドだ」
「!」
私は反射的に王太子サマから距離を取る。
見た目通り本当に王子だった──!
最悪、最悪!
王太子に保護されるなんて冗談じゃない!
もう王子とかその辺の面倒そうなのに関わるのは絶対嫌!
一体私がどこの世界の誰に転生したのかは知らないけれど、小説のジェナは演じ切ったのだから!
今世は穏やかに、慎ましく、大人しく! 生きたいのよ!
頭を抱える私に、王太子は少し呆れを混ぜた眼差しを向ける。
「驚くのもわかるが……そこまで距離を取らなくてもいいだろう」
「いいえ! 王太子様に対して失礼でしたわ! 保護だなんて大層なこと、して下さらなくて結構です! この通り私はもう元気ですし、その辺の街や村に、自力で! 助けを求めますわ!」
手のひらを向けて拒否のジェスチャーをしつつ、必死に自力でどうにかするとアピールする。
どうやら逆効果だったらしい。王太子とその従者は、より一層私の態度に不信感を抱いたようだった。
それでもとにかく私は王太子に関わりたくなかった。
どれだけ変な奴と思われようが疑われようがどうでもいい。
私はジェナの処刑……首をはねられたのがトラウマになっていた。
小説の話通りとは言え、ジェナを処刑した王子という肩書きを持つ者は私にとって疫病神でしかないの!
だから私の前から去れ、王太子!
「しかし……近郊の街まではかなり距離がある。徒歩で向かうなら一日は掛かるし、魔物に襲われる危険もあるが」
王太子の言葉に、私は固まる。
ま、魔物……?
この世界には魔物もいるの? 一体どんな世界観?
武器も何もない状態で徒歩で一日、街に辿り着くまで無事でいられるのかしら。
魔物がどんな感じのブツなのか見ていないからわからないけれど、多分無理そう。丸腰の人間なんて格好の獲物じゃない。
……いえ、それでも王太子に関わるよりは絶対にマシだわ。
「一日ぐらい余裕ですわ。そう、きっと私はここで疲れて眠っていただけなのです」
「記憶を失くしているのに?」
「記憶を失くすほど、相当疲れていたのかもしれません。だからその内思い出せますわ。ええ、思い出せる気がします」
「そんな訳ないでしょう。殿下、やはりこの女性は保護した方が良いかと」
私と王太子の会話に割って入った従者が、探るような目付きを遠慮なくぶつけてくる。
さすがに言い訳に無理があると自分でも当然思っていたけれど、この流れはまずいわ。無理矢理にでも連れて行かれそう。
──ならもう、私だって逃げるしかないわ。
「助けて下さってありがとうございました。本当に私はもう大丈夫で──ああっ!?」
あたかも王太子の後ろに何かがいると思わせるように指を差して声を上げれば、思惑通り王太子と従者は後ろを振り向く。
私はその隙に立ち上がって逃げようとする。──はずだった。
「あ、ら……?」
私の身体は、限界を迎えていたらしい。
走り出すどころか、立ち上がることが精一杯で、すぐに力が抜けてぐらりと視界が歪む。
……ああ、ダメだわ。これ、倒れるやつ──。
そう自覚しながら、私は地面に近付く景色を最後に眺めて意識を失った。