玉川上水殺人事件(仮)
玉川上水殺人事件(仮)
森川 めだか
「情死か夏になると変な奴が出てくる。何も、玉川上水で心中することないだろうに・・」囁きが漏れる。
若い男女の遺体が水から引き上げられた。今、警察が人払いをしている。
「ご親切なことに指なんかつないじゃってもう・・」
男女は手と手を紐で縛っている。
遺体のポケットから身分証明書がそれぞれ出てきた。
「何々、・・ゆかりと誠か・・、お幸せに」
「こりゃ殺人ですよ、薬品を飲まされてる」そうやって屈み込んだのはモグラみたいな刑事、五十嵐則夫である。どこに行っても目立たない、さえない中年男。
「ほら、口の端がただれてるでしょう、普通、こんな飲み方はしません、気になって気になって」五十嵐が触っている男の唇は確かに皮膚がただれている。
「しかし、モグさん、解剖に回すっていうの?」
「そうです」
上役は五十嵐より年下である。上役もやりづらそうだ。
「私はこの二人を洗ってみますわ。もしかしたら犯人は捕まりたがっているのかも知れない」
モグさんのさえない後ろ姿を刑事の誰もが見送っていた。
「なおでら、・・と読むのかな」
五十嵐は直寺と書かれた寺への長い階段の中腹にいた。誠はここの若僧だったのだ。誰もが女との煩悩や仏との煩悶の末での心中と思うだろう。
五十嵐の言ったように二人の体からは薬品が検出されて、殺人事件として捜査されている。
「すみません」
声をかけたのは掃除をしていたこの寺の住職だ。五十嵐と同じようにどこにでもいるさえない中年男。
「何でしょう、参拝ですか」
「いや、違います。誠さんのことで」
「誠が何かやらかしましたか、あいつはこの頃来ない」
箒を置いて男は寺内に入った。
「何を祭ってあるんです?」後に続いて五十嵐も入る。仏像がある。
「観音です」住職はひどくぶっきらぼうだ。
「申し遅れました、ここの住職をしております、川崎と申します」
「殺人?」川崎は目を丸くした。
境内からは林に囲まれた湖が見下ろせる。
「絶景ですな」
「ああ、暇な時ならいつでも釣れますよ」
「それが込み入った事件でね、婚約者の娘さんとどうやら心中したと見せかけて、殺されてるんですわ。いや、なあに、私は万年平社員の下働きですがね、名前だけ刑事させてもらってます」
住職は困ったように口にした。
「あいつがねえ、誰かに殺されるなんてねえ」
五十嵐はその節くれだった親指を自分の胸に当てた。
「誰もがナイフを忍ばせてるもんです、少年の頃にね。私たち警察はその「少年のナイフ」を探し出すことなんですよ」
「じゃあ、誰にも動機があるわけだ」
「動機なんてあってないようなもんです」
「どうです、釣りでもしますか」川崎の目はもう鈍く光りを失っている。
「いいですね」
「今日は雨の後だから釣れますよ。霧も出てたし」
「浮世に何の意味もないんですよ」川崎は釣り糸を垂れながらそんな事を口にした。
「いやあ、まったく同感ですな。浮世には何の意味もない」五十嵐も二つ返事で同意した。
遠くを見つめていた川崎の目が五十嵐の釣り糸の水面に移った。五十嵐の釣り糸にアタリがきたのだ。
浮きが沈む。
「上げないんですか」
「待って」五十嵐はその重そうな腰を上げた。
「ハイネケンを買ってくるから」
「刑事さん、俺は仏像を盗みに来たただの盗っ人でね、そこの住職に出くわしたから殺しちまった。で、こいつを仏像に仕立てたら一挙両得。で、俺は住職になっちまった」
「ええ、ええ」
「物置きにまだありますよ、あの時の本物の仏像がね」
「それを誠さんに嗅ぎ付けられたんですか」
「まあ、そういうこと。奴はまだ若かった。何にも分かってなかった」
五十嵐はやっと釣糸を上げた。エサはすっかり食べ尽くされていた。
「あーあ」川崎は笑った。
「CTスキャンでもしたら分かるでしょう」
五十嵐は何も言わずに下山した。麓の雑貨屋でハイネケンを買って、他に買うものがないかうろうろして、小一時間ほどかかったろうか、湖に戻るとまだ川崎は背中を丸めて釣糸を垂れていた。
「でもねえ、川崎さん、誰かが死んだり、さよならはやっぱりちょっと寂しい。それが浮世の不思議さってもんですね」
「全くその通り」
川崎は逮捕され、五十嵐は万年平社員のままだ。川崎の言ったように飾られていた仏像をCTスキャンしたところ、中に骨格が発見された。
「モグさん、またお手柄」
「いや、なあに」
五十嵐は道も聞けないほどに落ち込んでいた。
遺体の口を触った指からはブラックチェリーの匂いがしていた。
ようやく湖の対岸まで来ると、そこに腰を下ろして一服した。
湖が吠えていました。