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五、おなごの意地というもの

 その夜、斎は床に就いてからもなかなか寝付けず、物思いに沈んでいた。

 こんな時思い出すのは、決まって一羽のある(すずめ)のこと。


 かつて帝が入道の宮と呼ばれていた頃、一羽の雀を飼っていた。寺の軒下に落ちていた雛をたまたま拾って、宮が世話をしたのだ。宮は昔から何事にも頓着しない――悪く言えば万事に興味関心が薄い人だったので、それは彼にとってとても珍しいことだった。


 けれど入道の宮は、拾った雀を(かご)で飼うことはしなかった。飛ぶのが下手なのを心配して風切り羽根を切りはしたが、部屋の中に止まり木と餌場をひとつ置いただけで、あとは自由にさせていた。

 斎にはそれが不思議だった。肩や腕に止まるくらいなついて、餌をねだって可愛らしく歌う小鳥。いなくならないか心配じゃないのか、あるいはひとところに留めてもっとじっくり愛でてみたくはないのかと。


(セイ)、私はね。狭い籠に押し込められた小鳥より、限られた自由でも懸命に羽ばたきさえずる鳥が好きなんだ”


 宮の口から何かを“好き”だなんて言葉を聞いたのは、あの時が最初で最後だ。幼い斎は雀に嫉妬すらした。


 けれど今になって思う。

 あの小鳥は宮自身。籠に入れられなかった雀には、入道の宮の願いが込められていたのだと。

 宮には自由がなかった。翼がなかった。狭い籠に押し込められる不幸を知っていたから、せめて自分の目の届くものには同じつらさを味合わせたくなかったのだろうと。


 五年前、花琉帝として即位が決まった時に彼は斎にこう言った。


「帝だなんて(がら)ではないけど、これも何かの縁であろう。私はこの先、私のようなつまらぬ人生を過ごす者がひとりでも減るように、善き為政者として振る舞うつもりだ。だから斎――」


“私の妻となって、後宮へ来てほしい”。


 幼い斎には、妻となることがどういうことなのか、よくわからなかった。いや、今でも正確にはわかっていない。

“男女の愛は移ろいやすいから信じられない”。いつか宮はそうも言っていたけれど。男女の愛を信じられなかったのは、斎も同じだ。


 斎の両親は彼女が物心つく前に亡くなった。だから斎は男女の愛が――夫婦とはどういうものなのかがわからない。

 幼い斎は親族の家を転々とさせられたが、引き取られた先では必ず斎の扱いをめぐって夫婦がもめた。


 男女の愛は永遠ではない。長年連れ添った夫婦の仲も、斎という小さな小石が投げ込まれただけで簡単に壊れてしまう。

 だから斎は、同様にいつか帝の気持ちが移ろい、見捨てられることが何よりも怖かった。


 あの時の宮の言葉に「はい」と素直に頷いていたら、今も自分は女として帝のお側にいられたのだろうか。

 それとも、後宮という籠に押し込められた小鳥になんて興味をなくして忘れられてしまっただろうか……。


 斎はその答えを知りたかったし、知りたくなかった。


(だから私は、自分の意思で男になること、臣下であることを選んだ)


 斎は己の決断を後悔したことはない。“(いつき)”としての自分はいつでも誰よりも帝の側にいる、その自負があった。


 だが――。


“御子を為すのはおなごにしかできぬ。つまり、おのこであるおぬしにはできぬことよな”


 昼間の左大臣の言葉がよみがえる。

 斎には、(まつりごと)の難しいことはわからない。

 ただひとつだけ言えることは、この先世が乱れることがあれば帝は悲しむだろう。政争が起こって自分のように粗略に扱われる者が出たら、苦しむだろうということ。


(主上は誰よりもお優しい方だから――)


 斎は木枕の上でごろりと寝返りを打った。


 お世継ぎを設けることは必要なことだ。花琉帝が望む“誰も自分のようなつまらぬ人生を過ごさぬ世”、その実現に必要なことだ。

 そしてそのお役目は、今の“(いつき)”である自分では力になれない。


 左大臣の末姫は、やんごとなき血筋の方にしか扱えぬという(きん)(こと)を弾きこなす、美しい姫であるという。

 尊き方の隣に()るのは尊き方がふさわしい。帝の隣に座る姫ならもちろん、正室である中宮であるのがふさわしい。


(明日、帝に直訴しよう。左のおとどの末姫さまを(めと)り、中宮として迎えるべきだって)


 そう決意して、斎はようやく目を閉じた。

 けれど夜が過ぎ空に有明の月が現れる頃になっても、睡魔は一向にやって来なかった。



 結局、斎はほとんど眠ることなく翌日の出仕を迎えた。


 まだ空が白み始める前から参内し、今か今かと帝のお出ましを待つ。そして帝の給仕を務める六位蔵人が清涼殿から膳を下げるのを確認するなり、御座所に乗り込んだ。


「主上! 至急に奏上いたしたきことがございます!」

「……お前、何しに来たんだ?」


 朗々と張り上げた声は何者かに遮られる。

 見れば帝の御前には既に頭弁(とうのべん)藤原真成(ふじわらのまさなり)がいた。


 まさか先客がいるとは思ってもいなかった。しかし今さら言葉を引っ込めることもできない。斎はドンと床を鳴らして気持ちを奮い立たせた。


「主上! お聞きください!」

「なんだい斎。今日はずいぶんと早いね」

「主上! 左のおとどの末姫さまを妃としてお迎えし、中宮をお立てくださいませ!」

「お前、何を言って――」


 あわてて立ち上がり斎を諫めようとした頭弁は、言いかけた言葉を失った。御簾(みす)一枚隔てた帝の纏う空気が、明らかに変わったからだ。


「それは左大臣の入れ知恵かい?」


 まるで子供をなだめるように穏やかに問う声の調子は、いつもより一段低い。しかし斎は気付いているのかいないのか、まったくひるむ様子がない。


「いいえ。この斎めが自分で考え、出した結論にございます!」

「へえ」

「主上の尊き血を次代に繋げることは、広く民草のためにも必要なことでございます。そのためには尊き方を正室としてお迎えし、一刻も早くお世継ぎを――」

「――(あなど)るなよ」


 その言葉が発せられた瞬間、周囲の温度が一気に冷えた。

 さすがの斎も、これには気圧されてびくりと肩を震わせる。花琉帝は静かに(しとね)を踏んで立ち上がると、御簾の奥から斎を見下ろした。


「いち臣下であるお前が、不遜にも私に意見しようと言うのか?」


 花琉帝はこれまで、斎に対し高圧的に振る舞ったことは一度もなかった。だが今の帝の全身には、見る者を圧倒する王者の威容が満ちている。


「それはその……。とっ、時には諫言(いさめごと)も必要なことにございますれば!」

「今すぐこの場から立ち去り二度と同じことを口にせぬのなら、今の戯れ言は聞かなかったことにしてやろう」

「いいえ、何度でも申し上げます! 主上は左のおとどの末姫さまを後宮にお迎えし、中宮をお立てくださいませ!」


 はっきりと不快を口にする帝。斎はそれでも一歩も退かない。だが、その足下はぶるぶる震えている。

 場に漂う異様な雰囲気に頭弁も割って入れず、ただふたりを交互に見比べることしか出来ない。御簾を挟んで一触即発のにらみ合いがしばし続き――


 次にその均衡を崩したのは、他ならぬ帝だった。


「……まったく。お前は本当に頑固だね、昔から」


 張り詰めた空気を和ませるように大きな息を吐き、どすんとその場にあぐらをかいた。

 途端にそれまでの物々しさは鳴りを潜めて、そこにいるのはただ、いつもの穏やかな笑みを湛えた花琉帝である。

 斎も釣られてわずかに全身の緊張を緩めた。ひりついた空気からようやく解放されて、頭弁もほっと胸を撫で下ろす。


「は、はい。斎は、諦めの悪いおのこにございますので――」

(セイ)


 いつき、ではなく“セイ”と。なつかしい名で呼ばれて、斎は目を見開いた。


(セイ)、私と勝負をしようじゃないか。もしお前が私との勝負に勝ったなら、お前の言うことを聞こう」


 突然の帝の提案に、斎も頭弁も虚を衝かれる。


「勝負……でございますか」

「ああ。だが私が勝ったなら、私の言うことをお前が聞く」


「どうだい?」と挑戦的に微笑まれて。単純な斎は反射的に売り言葉に買い言葉で返した。


「わっ、私はどのような勝負であろうと、相手がどこのどなたであろうと逃げも隠れもいたしませぬ!」


 あーあ、上手いこと乗せられているな、と頭弁は思った。もちろん帝が何を企んでいるかまでは彼にもわからないが。

 対する帝は「そうこなくては」と笑って手元の檜扇(ひおうぎ)を開いてみせる。そして改めて斎に尋ねた。


「お前の望みをもう一度言ってみなさい」

「は、はい。左のおとどの末姫さまを娶り……中宮をお立てすることにございます」

「なるほどわかった。では私の望みを言おう。もしも私がお前に勝ったなら――」


 ぱちん、と開いたばかりの扇を叩いて閉じて。帝は雄々しく片膝を立てると、御簾の間際まで身を乗り出した。



「――(セイ)、お前は女に戻り、私の妻になりなさい」



 かくて花琉帝と蔵人少将くろうどのしょうしょうの斎、ふたりが帝の嫁取りを賭けて争う前代未聞の勝負が宮中で行われることと相成った。


 斎が勝てば帝は左大臣の末姫を娶り、中宮とする。

 帝が勝てば斎は女に戻り、入内する。


 勝負は日給簡に名の記された殿上人、あるいは女官であれば自由に見物できるものとし、清涼殿の東庭に観覧のための桟敷を備えた大がかりな場がしつらえられることとなった。

 日取りは陰陽師の卜占により、十日後と定められた。


 勝負の内容はみっつ。

 ひとつは花琉帝の提案による和歌。

 もうひとつは斎の提案による剣。

 最後のひとつは頭弁・藤原真成の発案により、誰から見ても勝負が明らかな弓と決まった。


 これこそが、後に言われる「宮中妻問(つまど)ひ三番勝負」である。

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