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三、言葉は己にかえってくるもの

 登華殿の主が不在となり半月ほどが経過した皐月(さつき)の初め。


 ほとんどの官吏達が出仕を終え退出したその日の午後、頭弁(とうのべん)藤原真成(ふじわらのまさなり)は清涼殿を訪れていた。


「それで、(セイ)の様子はどうなんだい?」


 花琉帝は御座に現れるなりそう尋ねた。脇息(きょうそく)にもたれて足を崩す姿もどことなく品があり優雅だ。

 きちんと足裏を揃えて座る頭弁との間に御簾は下りておらず、乳兄弟であるふたりの親しさがうかがえる。


「しばらくは宿下がりされた登華殿の女御どのに同情してめそめそしておりましたが、今日は『(つばめ)の子が卵から(かえ)る瞬間を見た』とかなんとか言って朝から機嫌がよさそうでした」


 それは良かった、とほっとした様子の花琉帝を前に、頭弁は思い切り嘆息してみせる。


「ほとんど毎日顔を合わせているのですから、機嫌くらいご自分でお尋ねになればよいでしょうに」

「……あの子は私の前では決して泣かないし、弱音も吐かないからね」


 困ったように眉根を下げた微笑みは、どこか寂しげに見えた。


「まったく。そんなに心配なら最初から男子として昇殿させるのではなく、妃として後宮に入れておけばこんなややこしい事態には――」

「もちろん私もそのつもりだったさ。そのために還俗したんだから」


 帝はさらりと、(いつき)――女としての本名を(セイ)という――を妻にするために仏縁を捨てたのだと告白する。


「私は寺を離れる時、(セイ)に妻になってほしいと言った。ただね……」


 そこまで言ってトン、と持っていた檜扇を畳んだ。


「断られたんだ。――振られてしまったのだよ、私は」


 五年前、「私の妻になって後宮へ来てほしい」と告げられた時の斎の言葉を、帝は一言一句歌うようにつまびらかにしてみせる。


“宮さまは以前、『籠の中の小鳥より、自由に羽ばたきさえずる鳥が好きだ』とおっしゃいました。だから(セイ)は、誰よりも自由に羽ばたきさえずる鳥になりとうございます”


(セイ)はおひいさまではなく、宮さまをお守りするつよいおのこになります”


 斎は、幼い頃ただ一度だけ聞かされた入道の宮の言葉をずっと覚えていた。だからこそ、後宮の妃となり“籠の小鳥”になることを拒んだのだ。


「……本当に可愛いことを言ってくれるよね、私の(セイ)は……」


 手のかかる子ほど可愛い、といった調子でほんのり帝の口の端が持ち上がるのを、頭弁は呆れた様子で見ていた。


「こうも言っておりました」

「ん?」


 ぱちん、ぱちんと開いては閉じていた帝の檜扇の動きが止まる。頭弁はもったいぶってわざとらしく咳払いをした。


「以前、斎にそれとなく問うたことがあるのですよ。『もしもお前が女だったら、今よりもっと帝のお側にいられるのではないか?』と」

「ほお」

「そしたらあの者はこう言いました。『主上は“男女の愛を信じない”とおっしゃっていた。だから女の身では近くに置いてもらえない』と」

「あー……」


 どうやら身に覚えがあるらしく、いつも泰然としている帝の目が泳ぐ。


「いやー、言ったね。……言ったとも。『男女の愛など幻だ、そんな移ろいやすいものは信じられない』と」

「ずいぶんと男女の情にお詳しいかのようなおっしゃりようですね……」

「ハハハ、勘弁してくれよ。あの頃は私も難しい年頃だったのだから……。世を(はかな)んでいっぱしの世捨て人を気取っていたわけだよ」


 花琉帝とて生まれついた時から今のような鷹揚(おうよう)な人柄だったわけではない。ひとりの少年、ひとりの青年として自身の境遇に悩み、苦しみ――その果てに得た一種の諦めの境地が、彼を変えたのだ。

 そしていつだって、彼は斎の無垢な心に救われていた。


「いやあ、それにしてもその言葉まで斎が覚えていたとは……そうか、それで……」


 なるほど、だから「後宮の妃ではなく男になる」という発想が生まれたのか、と。

 過去の言動がすべて自分に返ってくる因果応報ぶりに、帝は「まいったなぁ」と笑った。


「笑い事ではありませんよ。登華殿が空いたことで、現在後宮には女御がひとりのみ。左大臣殿が末の姫を新たに入内させろと騒いでいます」

「お前から断っておいてくれないか」

「できるわけないでしょう! 左大臣の末姫は、御母上が前々帝の三の宮にあらせられる。それだけ尊き方を妃とされるなら、当然先方は中宮として迎えることを要求してくるでしょうね」


 中宮とは妃の中で一番高い位で、帝の正室を意味する。


「陛下、いい加減御心をお決めくださいませ」


 帝はすぐに言葉を返さず、ふっと遠くを見た。頭弁の後ろ、東庭に面する高欄に一羽の小鳥が止まっている。じっと翼を休めていた小鳥は、やがて風の訪れと共に羽ばたき飛び立っていった。


「……そうだね。そろそろ大事な小鳥をなだめすかして、籠にしまう頃合いかな……」


 「協力してくれるかい? 真成」。一度目を瞑り、涼やかな瞳でじっと目の前の男の顔を見る。まるで心の中まで覗き込まれているかのようで、頭弁はわずかに目を逸らしうつむいた。


 斎は没落した中流貴族の娘だ。

 両親が亡くなり親戚中をたらい回しにされて、最後に行き着いたのが出家した祖父のいる寺だった。寺は本来女人禁制だが、祖父も行き場のない孫を哀れんだのだろう。童の頃は男とも女とも取れる尼削ぎ姿で過ごして世間の目を逃れていた。           

 しかしその生活は永遠には続かなかっただろう。五年前に花琉帝が連れ出していなければ、今頃は尼寺に放り込まれていたに違いない。


 そのような身分も後ろ盾もない娘を妃として後宮に迎えることなど、本来は不可能だ。だが、帝は決して斎を諦めはしないだろう。

 彼にとってこの世の唯一の執着。彼を“天孫たる花琉帝”ではなく“(ただ)の人”たらしめるもの――それこそが斎なのだから。


「春宮派に追いやられてあなたが寺へと逃れた時、私はなんの力もないただの子供でした。あの時ほど自分の無力を呪った事はない」


 頭弁はうつむきがちのままつぶやく。


「ですからこの先は……たとえどんなことであろうと、あなたのお力になるのだと心に決めています」

「そうか。それは心強いね」


 落ち着いた中にも確かな決意が込められた臣下の言葉に、花琉帝はいつものように穏やかな顔で微笑んだ。


 ひと目その姿を拝した者は、口を揃えて「輝く美貌の帝だ」と言う。彼はいつだって、口元に美しい微笑を湛えている。

 だが乳兄弟である頭弁さえ、彼が心の底から笑っているのを見たことがない。



 ――斎の前以外では。


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