一、左近の桜はよじ登るもの
一羽の雀が、しうしうと快活に鳴いた。
小鳥は堂の中をくるりと旋回して、袈裟姿の若い入道の手に止まる。隣で見ていた尼削ぎの子供が「わぁあ」と歓声を上げた。
「お堂の扉も窓も開け放たれているのに、外へ逃げていかないなんて。その鳥は宮さまのことがよほど好きなのですね!」
宮と呼ばれた入道は、美しい顔を少しだけ傾けて「いいや」と笑った。
「この雀は逃げぬよう風切羽根を切ってしまったから、遠くまでいくことができないだけだよ」
「逃げてしまうのが心配なら、籠の中で飼われてはいかがですか?」
童は宝石のように輝く瞳でじっと見上げてくる。無邪気な問いに、入道の宮は困った様子で眉尻を下げた。
「――斎。私はね」
斎、というのはこの童女の名である。宮はそっとしゃがみ、斎の肩に雀を乗せた。
「狭い籠に押し込められた小鳥より、限られた自由でも懸命に羽ばたきさえずる鳥が好きなんだ」
その時の宮の言葉が、今も斎の心に焼き付いて離れない。
◇
先帝が流行り病でお隠れになり、次代の花琉帝の御世となってから五年。京全体で猛威を振るっていた病は終息を迎え、帝の善政により世はふたたび平穏と繁栄を取り戻していた。
「主上ーーーー!」
帝のおわしどころである清涼殿に、鈴のような声が響いた。
声の主はひとりの年若い蔵人(※天皇の秘書的役割を担う職)。
深緋の束帯に金鞘の太刀を佩いた武官であるが、張り上げた声は凜と澄んで、顔だちは少女のように愛らしい。
「蔵人から報告の時刻にございます! 御座所にお戻りくださいませ!」
帝を呼びつけるなど不埒千万であるが、この若者にはそれが許されていた。
呼ばれるまま奥の御帳台から帷子をめくってひょっこり現れたのは、二藍の御引直衣の紫が鮮やかな花琉帝である。光り輝くような美貌と言われているが、御簾が半ばまで下がっており臣下から顔は見えない。帝は優雅に紗の袖を返すと茵へ腰を下ろす。
「やあ、斎。ご苦労だね」
いつき、と呼ばれた先程の蔵人が顔を上げる。「報告を聞こうか」と帝に促されると満面の笑みを見せた。
「はい! 本日は蔵人所から鷹が逃げました!」
開口一番、屈託のない調子で報告される不祥事。斎の遠慮も忖度もない口ぶりに、後ろに控えていた他の蔵人二名はのっけから心臓が止まりそうになった。
「へえ。それで私の鷹はどうなったんだい?」
内裏で飼われている鷹は帝の持ち物である。御簾の下から覗く帝の口元から一瞬笑みが消えたので、後ろの蔵人達は恐れおののいた。しかし当の斎は萎縮するどころかドーンと胸を張る。
「ご安心召されませ。この斎が! 左近の桜によじ登って無事捕まえましてございます!」
内裏の正殿である紫宸殿、その正面に植えられている左近の桜。これを折ったり傷つけることは大罪とされている。ましてやよじ登るなど――。
しかし帝は愉快そうに声を上げて笑うだけだった。
「そうか、それは偉いね。では働き者の斎に褒美を取らせよう。――ほら、お前の好きな梅枝だよ。こちらへ来なさい」
高坏に盛られていた唐菓子をひとつつまむと、手招きして御座へ呼び寄せる。斎は「ははーっ!」とおおげさに平伏してから膝行でにじり寄った。そして帝の手から直接、ぱくりとひとつ梅の枝を模した揚げ菓子を頬張る。
「左近の桜から見た景色はどうだった?」
「はっ、ちょうど葉桜が盛り……でございましたので、視界すべてが……もぐもぐ。青々として、むぐ。それはそれは良き心地にございました」
「そうか」
「はい! 主上にも、青葉の合間から日が差し込んできらきらと輝くところをお見せしたかったです」
帝は梅枝をもうひとつつまんで、斎の小さな口に押し込む。
「お前は昔から木登りが得意だったね。だが身体が羽根のように軽いから、そのうちいずこかへ吹き飛んで消えてしまうのではないかと心配になるよ」
「まさかそのような! いつでも誰よりも主上のお側におりますのが、この斎めにございますれば!」
次から次へと手づから菓子を与える様はまるで餌付けだ。斎がぽりぽりと栗鼠のごとく口に放り込んでゆく様を飽きもせず眺めている帝だったが、ややあってからようやく、あっけにとられている残りの蔵人達に声をかけた。
「他に報告がないのなら、お前達は下がって良いよ。――あ、鷹を逃がした鷹飼は始末書を出すように」
◇
花琉帝は即位前、長らく「入道の宮」と呼ばれていた。立太子をめぐるいざこざから、元服してすぐ寺に封じられていたためだ。
半ば世間から忘れられていた彼は、流行り病で先帝や春宮(※皇太子)らが相次いで亡くなったことで思いがけず即位することとなる。――御年二十四の時であった。
その際、彼はあっさり仏縁を捨て還俗している。
結果として彼を政から遠ざけた者は流行り病に倒れ、世俗から離れのんびり暮らしていた入道の宮だけが病を逃れたのは皮肉である。
五年前、京の外れの寺から輦に乗ってやって来た新帝を内裏に迎えた時、宮中の人々は一様に驚いた。
花琉帝となった彼の人は、着替えの衣も、身を護る太刀の一本すら持たず、文字通り身ひとつだけで現れたからだ。
長い隠遁生活で世の無常を嫌と言うほど味わった花琉帝は、若くして今世のあらゆる未練や執着を手放してしまっていた。
そんな彼が唯一寺から持ち帰ったもの――それが、斎という少年だった。
◇
「『面倒になりそうなことは斎の口から報告させておけば良い』っていう頭弁さまの助言は本当だったな」
清涼殿から退出し、蔵人所への報告を終えた帰り道。出仕を終えたふたりの蔵人は、ひそひそと話し合っていた。
「女房達は斎のことを“枸橘の君”だなんて呼んでもてはやしているけど、枸橘ってあの垣根とかに使われる棘のある木だろ? ――ふにゃふにゃしてて棘って感じじゃないよなぁ」
「いやあいつの場合……主上が棘そのものだろ……」
不敬極まりない台詞は、先輩蔵人の方から漏れた。
「実は以前、斎を『帝のお気に入りだからって調子に乗るな』って殴った奴がいたんだけど……」
ちらちらと周囲を見渡し、声を潜める。
「そいつ、翌日から宮中で見なくなったからな」
迫真めいた言葉に、後輩蔵人は「ひぇ」と悲鳴を上げた。
「まあ、たしかに即位前からの知り合いとはいえ、少し御愛着が過ぎるなぁとは思うけど」
「でも……なんか憎めないよな、あいつ」
たしかに斎は特別だ。
通常、五位蔵人は良家の子弟の中でも特に器量よしの者が選ばれる。斎はさる中流貴族の姓を名乗っているが、その一族は既に没落して久しい。昇殿資格のある蔵人への抜擢は異例中の異例である。
だが、斎の出世は決して帝の贔屓とは言い切れない。共にはたらく蔵人達にはそれがよくわかっていた。
斎の性格は素直で、勤務態度は真面目そのもの。加えて誰にでも親切だ。和歌や漢文の素養はいまいちだが、ああ見えて身のこなしは軽く、武芸はなかなかの実力である。
そもそも今日だって、斎が身を張って左近の桜に登らなければ鷹を捕まえられなかっただろう。もしも帝の鷹を内裏の外へ逃がしてしまっていたら――鷹飼の処罰は始末書どころでは済まなかったはずだ。
「それにしても斎……あいつってさ……」
「ああ……」
どちらともなくふたりは立ち止まった。言いかけた言葉を一旦呑み込んで、互いに目配せし頷き合う。
そしてふたりは揃ってひとつの結論を口にした。
「「あいつ、ぜったい女だよな?」」