10 他国語
三人が水着を買って帰ってきた。
【おかえりなさい】
セリナージェがピッツ語―ピッツォーネ王国の言葉―で出迎えた。
「ははは! あーびっくりした。家を間違えたかと思ったよ」
クレメンティが少し驚いた後、大袈裟にセリナージェを褒めた。クレメンティの反応にセリナージェは赤くなって恥ずかしくて俯く。セリナージェが俯いたことに慌てているクレメンティだが、ここは侯爵邸であり、セリナージェ側のメイドや執事の前でセリナージェに気安く触るわけにもいかず、アワアワとしていた。それをイルミネがお腹を抱えて笑っている。
ベルティナはそんな和やかな様子を微笑んで見ていた。そこへエリオが近づいてくる。
「あれで発音は合っているの?」
ベルティナはエリオに確認する。
「ああ! バッチリさっ!」
そして、二人も挨拶をした。
【おかえりなさい】
【ただいま】
ベルティナとエリオがピッツ語で話し始めたので、セリナージェたちもそちらへ向いた。
【お腹がすいたよぉ】
「え? イルは、何て言ったの?」
セリナージェは興味津々で学ぶ気概に溢れていた。
「お腹がなんとかって」
セリナージェの問にベルティナが首を傾げながら記憶をたどる。
「お、ベルティナ、おしぃね。『腹減った』だってさ」
エリオの通訳にみんなが笑った。
「イル。もう一度」
【お腹がすいたよぉ】
【【お腹がすいたよぉ】】
イルミネの発音をベルティナとセリナージェが真似をする。
「二人とも上手だよ。本当にお腹がペコペコみたいだ」
みんなで笑った。
「もう、ランチの用意はできてるわよ」
セリナージェが食堂室の方を向いた。
「じゃあ、このまま昼食にしよう!」
イルミネが我先に食堂室へと向かった。四人は急ぐイルミネを笑いながら後ろをついていった。
五人は食堂室でランチを始める。いつものように会話が弾む。
「それにしても、ピッツ語を話せるなんて思わなかったよ」
「まだまだ話せるってほどじゃないのよ。練習中なの」
クレメンティが驚いてくれたのてセリナージェはちょっと嬉しかった。セリナージェはクレメンティをびっくりさせたくてベルティナと練習していたのだから。
「そうなの。だから、素晴らしいお手本がこんなにいるんだから、今のうちにお勉強した方がいいかなって思って。 ね? セリナ!」
ベルティナもセリナージェのフォローをした。照れてしまうセリナージェのために勉強していることが自然だと伝える。
「え? ええ、そうなの。三人から教えてもらえると嬉しいわ」
セリナージェはチラリとクレメンティを見た。クレメンティはちょうど料理を口に運ぼうとして、セリナージェの視線には気が付かなかった。
「なるほどね。二人ともすごいなぁ」
エリオが感心した。
「三人はピッツ語もスピラ語―スピラリニ王国の言葉―も喋れるじゃない。そちらの方がすごいわ」
ベルティナはすでにマスターしている三人に心から感心していた。
「僕たちは、こちらに留学する予定があったからね。二人は大陸共通語は?」
「ええ、難しい言葉でなければ喋れるわよ」
クレメンティの質問にセリナージェが誇らしげに答えた。いくら侯爵令嬢でも成人前の女性が大陸共通語を話せることは珍しい。
ベルティナは語学が好きであったので何のためというわけでもなく勉強していた。セリナージェはそんなベルティナを見ていて興味が湧いて勉強していた。
「大陸共通語が喋れるなんて、女性ならそれだけでもすごいじゃないか。それなら、語学の問題ないだろう?」
クレメンティは普通の男性が普通に持つだろう疑問を女性二人に聞いた。答えたのは女性二人ではなく少し渋顔になったイルミネだった。
「はぁ〜……。レムはもう少し女心を勉強しような」
イルミネは肩を落とした。クレメンティはとてもびっくりして、まわりの顔をキョロキョロと見ている。
「え? なんで?」
エリオもわからないようで目を見開いた。女性二人は苦笑いだ。
「エリオ。お前もなのか? はぁ〜。
ねぇ、セリナ。見た目に騙されてない?」
イルミネは顔をあげてエリオに訝しんだ顔をする。しかし、セリナージェには優しい表情だった。
「ふふふ。そういう時期は越えたと思うわよ」
ベルティナの答えにセリナージェが赤くなって俯いた。
「そう、ならよかったよ」
イルミネが小さくため息をつく。
「あのさ。なんか取り残されてるよ。僕とエリオ……」
イルミネとベルティナの暗号のような会話に、クレメンティはベルティナとイルミネの顔を交互に見ながら眉を寄せた。エリオもクレメンティに賛同するように頷く。
イルミネがエリオとクレメンティの様子を見てため息をついた。
「あのなぁ……。じゃあさ、大陸共通語を喋れる平民どれくらいいる?
ギリギリ喋れるかもしれないのは、王城勤めの者くらいのもんだろうね」
「そうだろうなぁ」
クレメンティが頷く。エリオも頭を上下に二回振った。
「なら、領民と話したければどうしたらいいのかな?」
イルミネの口調は珍しく二人にちょっと厳しめだ。それでも問題形式にするところが陽気なイルミネらしいと、ベルティナは小さく笑った。
「なるほど! ピッツ語を話せた方がいいな」
エリオも一生懸命考えている。
「じゃあ、セリナが領民と話したくなるのは、セリナがどんな立場になった時かな?」
『カタン!』
セリナージェが急に立ち上がった。
「ごめんなさい! 私、お腹いっぱいだわ! ちょっと先に、部屋に戻るわね」
セリナージェは顔を真っ赤にしたまま、パタパタと急ぎ足で食堂室を出た。
ベルティナはイルミネを恨めしげに少し睨んだ。
「もう! イルったらっ! レムをからかうつもりでセリナをいじめてどうするのよっ!」
ベルティナは自分もその会話を少し楽しんでいたことなど忘れている。
「ごめーん! だって、レムもエリオも鈍感過ぎるからさぁ」
クレメンティはセリナージェが出て行った方を心配そうに見ている。
ベルティナは、セリナージェの昼食を部屋に運んでくれるようにメイドにお願いした。そして、クレメンティへと向き直る。
「確かにイルの言うことも一理あるわね。レムにはもう少し、セリナの気持ちを察してあげてほしいって思うことはあるわ。もちろん、レムがちゃんとセリナのことを考えてくれているならば、だけど」
ベルティナはクレメンティの気持ちを察してはいるが、はっきりと聞いたわけではないので強めに釘を刺した。
「ちゃんと考えているさっ! ぼ、僕だって! セリナがピッツ語を勉強してくれてるなんて……う、嬉しいよ……というか…幸せだなって……」
クレメンティは真っ赤になって俯いた。
「それなら、食事が済んだら部屋へ顔を出してあげてちょうだいな。レムからセリナがピッツ語を覚えてくれることが嬉しいって伝えてくれれば、セリナはきっともっと頑張れるわ」
「ああ! わかった!」
クレメンティは笑顔になり食べることを急ぎ始めた。
「それにしても、ベルティナはメイドたちに随分と丁寧に話をするんだね」
エリオの突然の指摘にベルティナは面食らった。ベルティナとしてはそんなに意識はしていない。
「うん、俺もそれは思ったよ」
イルミネもすぐにエリオに賛同した。
「それは、そうよ。みなさん、この州の子爵家か男爵家の方が多いのよ。執事長は筆頭子爵家様だわ。私みたいな末端男爵家の小娘には頭が上がらない人たちなのよ」
ベルティナは言葉を選びながらも自分の考えをしっかりと話した。
「侯爵様がそう言っているの?」
エリオは訝しんだ。
「まさかっ!」
ベルティナは両手をブンブンと振った。エリオたちには侯爵家の人々への不信感や嫌悪感をもたれたくなかった。
「侯爵様は本当に家族のように扱ってくださるわ。奥様も、お兄様も、お姉様たちもよ。私とセリナを同じように扱ってくださるの」
ベルティナは自分で口にして自分の言葉で心が暖かくなった。侯爵家の家族や使用人たちの愛を思い浮かべた。
「うん。俺たちからみても、メイドたちにもそういう雰囲気はあったよ。ベルティナも叔父様叔母様って呼んでいたよね」
他人行儀であったり、爵位の上下をはっきりさせるのなら『侯爵様』と呼ぶべきだ。
「うーん。私の気持ちや立場を説明するって、難しいわ。遠慮しているわけではないの。
そうね。侯爵様ご一家はもちろん、使用人のみなさんの事も尊敬している……そうそれが一番しっくりくるわね。尊敬しているのよ」
「へぇ。例えば?」
エリオが前のめりに聞く体制になった。
「こうして、私が四人と食事をすることも、自然に受け入れてくれるのよ。それに、セリナの体調だけでなく私の体調にもすぐに気がついてくれるし。
小さな頃には、セリナも私もよく注意されたわ。それができるってことはご本人もとてもちゃんとしてらっしゃるってことなのよ。セリナなんて、本物の侯爵令嬢なんだから。
そのセリナに対しても、メイドであってもしっかりと注意ができるの。
いつも見ていてくれるからだわって感じるわ」
「まあまあ! わたくしどもをその様にお考えくださっていたなんて、嬉しいですわ」
「メイド長! いつからそこに?」
ベルティナはびっくりしてから頬を染めた。褒めている言葉を本人に聞かれているというのは恥ずかしものだ。
「ずっとおりましたよ。それがお仕事でございますから。ほほほ」
「あ、あのですね。いつも感謝してるってお話です。本当にありがとうございます」
ベルティナは真っ赤になりながら、メイド長に頭を下げた。
「そう言っていただけるのはとても嬉しいのですが、ベルティナ様には、もう少し、わたくしどもに甘えていただきたいものです」
さらに横から落ち着いた声が響いた。
「執事長もいたの? もしかして、いつもこうやって見守ってくれているの?」
「はて? わたくしどもはずっとこちらにいましたよ。ホォッホォッホォッ」
ベルティナは執事長の落ち着き払った笑いに降参した。
「私が思っているよりも、もっともっと、大切にされているのね。ありがとうございます」
「ベルティナ様がわたくしどもをお優しく気にしてくださるから、気持ちよく働けるのでございますよ。
ですが、それも嬉しいのでございますが、みなさんにリラックスしていただくのも、わたくしどもの仕事でございますので、ベルティナ様にはもっとお気を抜いていただきたいと思っている者は多いのですよ」
メイド長の視線はとっても優しい。
「わ、わかりましたから、お願いです。執事長もメイド長ももういじめないで」
ベルティナが耳まで赤くして顔を両手で隠してしまった。執事長とメイド長そして後ろに控えていたメイドたちも、小さな声で笑って優しい瞳でベルティナを見ていた。
エリオはメイドたちにそうやって見守られるベルティナが、日々使用人たちにどのように接してきていたかを考えるととても心が暖かくなった。
クレメンティが挨拶をして、食堂室を出て行った。ベルティナも『心配だから』とクレメンティの後を追った。
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