角研ぎ場
夜、鹿は不思議な場所に迷い込む。
辺り一帯に生えている木の皮が所々剥げているのだ。
「なんだろう? ちょっと向こうの方も見てこようか?」
そう言ってターシャは鹿の背中から木に飛び移るとスルスルと上の方まで登りやがて森の奥の方へ消えて行った。
一方、鹿はこの光景にどこか見覚えがあった。昔、これと同じような木を見たような……あれは確か……。
その時、葉擦れの音が近くで響いた。鹿は飛び上がると直ぐに身をかがめ辺りを見渡す。
すると草叢から現れたのは嘗て群れに属していた時の仲間達だった。
こちらに気づいた群れのボス鹿であるカバラは少し驚いた後、可笑しそうに笑った。
「おやおや? とっくにどこかでくたばっているかと思っていたが」
カバラの言葉に周りの鹿もまた笑う。
「ここに来たってことは俺達の群れに戻りたくなったか?」
カバラはそう言いながら近くの木に自身の角を擦り付け始めた。
その光景を見て鹿は思い出す。
あぁ、そうだ。
群れの中でも特別長い角を持ったカバラは角が成長し頭が重くなり過ぎないように、こうして定期的に木に角を擦り付け角を削り研ぐ。そしてここは角を研ぐのに丁度手頃な硬さの樫の木の群生地なのでカバラお気に入りの角研ぎ場なのだ。
群れに属していた時、鹿もまたカバラの後ろについてこの場所によく来ていた。
「違う!」
鹿は叫ぶ。だがカバラはそんな鹿の叫びを聞き寧ろ確信したように角を研いだまま落ち着き払った声で言う。
「俺だって獅子じゃない。お前の態度次第では群れに戻してやってもいい」
「誰がお前の群れなんかに!」
「はぁ……。どうしてお前は素直になれない?」
カバラは角を研ぐのを止め、鹿を真っ直ぐ見つめた。
「お前は死ぬために群れを飛び出した……だがどういうことだ? 未だにピンピンと生きているではないか」
「……それは最後の最後くらい綺麗な場所で死にたいから……その死に場所を探しているんだ」
「何を言っている? お前は死ぬのが怖いだけだろう?」
「違う! 勝手な事を言うな!」
「違わないんだよ。お前は弱い鹿なのだから」
あまりにも強く言ったカバラの当たり前だと言わんばかりのその表情に鹿はつい返す言葉を失ってしまった。
その隙を縫うようにカバラは言ってきた。
「夜の森をたった一匹じゃ心細かったろう?」
カバラのその言葉に鹿は正直気持ちが揺らいだ。
そうだ。寂しかった。全てがカバラの言う通りだった。
独りで生きていくのはもう限界だった。独りで死んでやるって強がることで今日の今日まで生きることが出来た。
そのくせ綺麗な場所が見つかる度に怖かった。何かと理由をつけ明日を生きようとする自分の弱さが心底嫌になった。
こんな日々から解放されるなら、なんだって出来る気がする。
「群れに戻りたくなったか?」
カバラの言葉に鹿は一度だけ深く頷く。
その反応にカバラは満足そうに笑った後、鹿の耳元で囁いてきた。
「それならお前の側にいるという猿を殺してこい」
その言葉を聞いた瞬間、鹿は地面を蹴りカバラと距離を取った。
「おいおい。ボスの言うことは素直に聞くもんだぜ」
群れの鹿が囃し立てる。
「なんでも猿の脳味噌を食えば人間並みに知恵がつくらしいじゃないか。この俺に知力が付けばもはや敵なしだろう?」
カバラはそれだけ言い残すと身を翻しその場を立ち去って行った。群れもまたカバラの後に続いて去って行った。
残された鹿は自分はどうすべきなのか夜の闇に問い掛ける。その夜の月は皮肉なほどに綺麗な満月だった。
月明かりの下、鹿はただターシャを待ち続けた。