青嵐が誘うもの
「聖女様っ!」
クレアが入ってきてすぐに、悲鳴にも似た声が執務室の空気を切り裂いた。何か硬いものが落下したような音がする。見れば、ヘンリエッテが床の上で伸びていた。
「ヘ、ヘンリエッテ!」
聖女を生で見られた事に感激して卒倒してしまった女子修道院長に、流石のモリスも動揺を隠せない。
「アダルバート、人を呼んで来なさい! ……アダルバートっ!」
しかしながら、アダルバートは返事をしなかった。意図的に無視しているのではなく、モリスの声など耳に入っていないようだった。彼の両目はクレアに釘付けだ。
「ネルソンさん、ごきげんよう」
クレアは室内の騒動には見向きもしないで、清々しい程に爽やかな笑顔を向けてきた。そして、ネルソンが何か返す前にモリスに話しかける。
「ねえ、大修道院長様」
ヘンリエッテの頬を叩いていたモリスが、我に返ったようにクレアの方を見た。
「今日から私も、ここに置いていただいてもいいですか?」
「せ、聖女様がこちらにっ!」
モリスが答えるより早く、目を覚ましたヘンリエッテがわなわなと震えた。全身の毛穴から汗が噴き出してきたかのように、しきりに青色の花の模様がついたハンカチで顔を拭っていたが、ついには「か、神よ……」と言いながら祈るように指を胸の前で組んで、またしても意識を失ってしまった。
「いけませんか? 大修道院長様」
「こ、これも神のお導きでしょうか……」
モリスは、もうわざわざヘンリエッテを起こす気力もなくなったようであった。思考が停止してしまったような口調で、先程ネルソンたちにかけたのと同じような台詞を呆然と呟く。それを聞いてネルソンは慌てた。
「大修道院長様、それはどうかと思います」
ネルソンは必死でモリスの考えを変える言葉を探した。
「彼女は青藍の聖女です。そんな人がこのようなみすぼらしい大修道院にいたのでは、天より聖女様を遣わしてくださった神も嘆かれる事でしょう」
「まあ、ネルソンさん! 私を心配してくれているのですね!」
だがこの発言は、逆にクレアを喜ばせるものになってしまったらしい。
「私なら平気です。ネルソンさんがいるのなら、どんな場所でも耐えられます」
「……外見の美しさなど、神の御前では無意味です」
しかも、悪い事にモリスの機嫌まで損ねてしまったようだ。
ネルソンは慌てていたためそんな事にまで気が回らなかったが、確かにそこを治める人に向かって、大修道院を『みすぼらしい』などと表現するのは、失礼に他ならないだろう。そうと気が付いて頭が真っ白になったネルソンは、失言を取り繕う言葉を瞬時に吐けなくなってしまった。
「お待ちください、大修道院長様!」
ネルソンが困っていると、ドローレスが納得できないとばかりに話に割って入ってきた。
「この女は皆に聖女だとか言われていますが、その本性は私からネルソンさんを掠め取ろうとするような薄汚い泥棒なんです! そんな人をここに置いておかないでください!」
「違います! ネルソンさんはまだ自分がどんな間違いを犯しているかに気が付いていないだけなんです!」
心外だとでも言いたげにクレアが反論する。
「ネルソンさんはドローレスさんについて行くのが自分の幸せだと思い込んでいます! でも、それは違います! ネルソンさんはドローレスさんと一緒にいても幸せにはなれません!」
「そんな訳ないわ!」
「いいえ、あります!」
クレアは当然とばかりに言い放つ。
「だって、あなたは青嵐の鬼女でしょう。災いをまき散らす鬼女といて幸せになれるなんて、そんなはずないではありませんか」
ドローレスは言葉に詰まる。あの宿屋でネルソンと再会した時に、これと同じような事を言っていたのは他ならぬ彼女自身だったのだから当然だろう。
「私、絶対にここから出て行きません!」
クレアは断固として言い張った。
「私は聖女として皆を幸せにしたい……。そのためには、ネルソンさんが必要なんです!」
そう言い切ったクレアの瞳は、怖いほど澄み切っていた。




