青嵐の鬼女
寂れた町にある、古ぼけた一軒の宿屋。ある静かな朝、その店の傾きかけた扉が、ギィと音を立てて開いた。
人気のない店内に入ってきたのは、一組の男女だった。男性の名前はネルソン・イングラム。男性的でありながらも、繊細な目鼻立ちをした美青年だ。
ネルソンは、少し癖のついた髪を揺らしながら、迷いのない足取りで店内を進んだ。
その後ろからついて来るのは、ネルソンと一緒にいるにはあまり相応しくないような、大した特徴もない顔立ちの娘だった。頭の上で優雅に結わえられたシニョンが、彼女の目立たない容貌に、わずかばかりの花を添えている。
彼女はネルソンの幼馴染であり親友のヒルダ・ホートンである。
「お客さん!」
不意に大声が聞こえてきた。誰かが店に入ってきた事に気が付いた宿屋の店主らしき男が、泡を食った様子でネルソンたちのところへ駆け寄ってくる。
「今日はまずいですよ! お帰りください!」
「定休日か?」
ネルソンの低く、体の奥まで響いてくるような声は、そうじゃないだろうと言わんばかりの調子を帯びていた。
「営業はしていますがね……」
店主は言いにくそうに口籠った。そして、いかにも重大な秘密を暴露するように声を落とす。
「いるんですよ、こ、この店に、『青嵐の鬼女』が……」
店主は身震いした。それと同時に、その目には、とてつもない迷惑を被った事への不満の色が見え隠れする。
「……それならここで間違いない」
ネルソンは冷めた口調で言った。ヒルダに目配せして、驚く店主を尻目に、その場を後にする。
ネルソンは、目的の場所にすぐに到着した。ドアの隙間から燭台の光が漏れているのが、その部屋だけだったのだ。他にこの宿屋に泊まっている人がいるとも思えなかったので、ネルソンの会いたい人はここにいると見て間違いない。
「ヒルダ。ここからは僕一人で行く」
ネルソンは、ここまでついてきてくれた友人に声を掛けた。
「分かりましたわ」
ヒルダは重々しく頷いた。
「後で落ち合いましょう」
戦地に赴く兵を見送るような一瞥を残した後、ヒルダは不気味に静まり返った廊下の向こうに消えていった。
その姿を見送ると、ネルソンは目の前の扉をノックした。だが、中からの返事はない。ネルソンは宿泊主に向けて、扉越しに話しかけた。
「僕だよ、ドローレスさん」
先程までは険しい声しか出していなかったネルソンの声色が、無意識の内に柔和なものへと変わっていた。
その優しい旋律に導かれるように、薄い扉がゆっくりと開かれる。左耳に藍色のイヤリングをつけた部屋の主が、信じ難そうな目でネルソンを見ていた。
そこにいたのは、美貌の女性だった。首元までぴっちりと詰まった地味なドレスを着ているものの、その生来の麗しさは隠しようもない。
吊り目がちの凛とした目元と、小雨が降り注いだ後のようなしっとりとした肌。少し強気そうな顔立ちにもかかわらず、手首や頤は守ってやりたくなるくらい華奢で、そのアンバランスさが堪らない程に魅力的だ。豊かな胸元からほっそりとした腰にかけてのラインは、芸術的な美しい曲線を描いている。
だが、何と言っても目を引くのは、その髪と目の色だろう。濃度は違えど、誰もが髪も目も金色をしているこのレイファーニュ王国において、彼女は世にも珍しい深い藍色の髪と瞳の持ち主だったのだ。




