67.灼血の咆哮
「ぎゃああーっ! ぎゃあああーっ!」
魔人マドゥクランは、若草色の旋風に手足の自由を奪われ、サングラの精神攻撃になすすべもなくただ絶叫を放っている。
ラルコにも予想できなかった、圧倒的なアウラの奔流。サングラが初めて明らかにした潜在能力はこの時、この場所にいる誰の力をも凌駕していた。
「うわーっ! うわあーっ!」
サングラは大声で叫びながら、目の前の敵を倒すことだけに夢中になっていた。
実戦に慣れていない彼の戦い方は、子供が泣きながら手足を振り回しているだけのような、稚拙なものだ。ひたすら己のアウラを相手に叩きつけることしか考えておらず、自分が何をしているのかも理解していない。
それでも、その強大な力は魔人の抵抗を歯牙にもかけず、かの者の精神世界の中で傍若無人に暴れゴウラを侵食している。
だがその戦い方は、ある危険をはらんでいた。
若草色の風は、敵のゴウラを傷つけるだけにとどまらず、それを滅するために喰らい尽くそうとしている。それは相手の力をも己のものとし、自身の力を更に強めることには役立っていたが、同時に相手の性質も合わせて取り込むことになってしまう。
これが過ぎると、アウラに濁りを生じさせることになる。つまり、魔障におちいる恐れがあるのだ。
現に今も、サングラが放ったアウラはそれ自身が一個の獣であるかのように、圧倒的な暴力で魔人の精神世界を蹂躙している。
サングラはそれを自らの意思で行っているつもりでいるが、事実は逆だ。暴走するアウラに、彼の意識が引きずられてしまっているのだ。
その様子を意識をつなげる形で見ているラルコは、理性を失いつつある友に危険を感じ、心で呼びかけた。
(冷静になれ! このままでは敵を倒す前に自分が壊れてしまうぞ!)
だがその言葉は、彼に届かない。
ラルコは精神攻撃による窮地こそ脱したが、魂に受けた傷は大きくアウラを自在に操ることができない。それに右腕を失ってしまったうえに大量の失血により身体を動かすこともままならない状態だ。
彼に手を差し伸べ、身体に直接触れてより精神を通わせようと試みるも、片手を持ち上げる力を絞り出すことさえ出来ずにいた。
そしてサングラは、仲間の声に耳を貸すどころか、全てを拒絶するように両眼をきつく閉じ、長剣の柄を両手で握りしめ全身を震わせて、若草色の旋風に更なるアウラを注ぎ込もうとする。
もはや彼には、周囲の状況は見えていない。
危険な兆候にラルコが再度の警告を発するよりも早く、マドゥクランが苦し紛れに放ったゴウラの黒槍が、サングラの身体を貫いた。
「あぐっ!」
敵を倒すことにのみ集中していた彼は、魔人の攻撃を完全な無防備状態で受けてしまい、その衝撃で若草色の旋風を手放してしまった。
逆襲の一手。だがその槍撃は、魔人を更なる窮地に陥れた。
制御を外れたアウラの旋風は、力を失うどころか更に威力を強め、ラルコが大槍の旋撃を受けた時と同じように、無尽の回転へと力を集中し始めたのだ。
「グァ……、ガハアアッ!」
マドゥクランはアウラの旋風にその肉体を雑巾のように絞り上げられ、全身から黒い血を噴き出しながら苦鳴を放った。
一方のサングラは、精神に大きな損傷を受けたものの、暴走するアウラの軛を離れたことにより、かろうじて理性を取り戻していた。
「ぐふうっ……、はあっ、はあっ……。
だ、大丈夫かラルコ。ぼ、僕が絶対に、君を……たす……」
剣を下ろし、力尽きたように息を吐きながら、崩れ落ちそうな身体を気力でふるい立たせようとする。
それを背後から見ていたラルコは、動かぬ身体を無理やり起こし、左手でサングラの脚に掴みかかった。
自分を助けるなどと悠長なことを言っている場合ではない。彼自身に、別の脅威が迫っていたのだ。
「馬鹿! 前を向け!」
「あっ!」
体勢を崩してよろめくサングラの向こう側に、剛爪を振り上げて突進して来る魔獣の姿が映る。
光鎧を展開して彼を包み込もうとしたがやはりうまく働かず、左手と半分しかない右腕で両脚を抱え込み、力ずくで引き倒しその上に覆いかぶさろうとした。
が、体重をかけても、彼の身体はびくともしなかった。
そうではない。彼の両足は、ラルコが飛びつくよりも先に地面を離れ、宙に浮いていたのだ。
彼の脚にしがみつくラルコの頭の上に、何か熱いものが浴びせかけられた。
震えながら顔を上げると、青い空を背景に、奇妙にねじ曲がった木の枝の影。
ではなく……。サングラの背中から、魔獣の腕が生えていた。
そこから、彼の血が流れ落ちていた。
顔の上に、ボタボタと降りかかってきた。
(サングラ!)
視界が赤く染まる。
喉の奥から、絶叫がほとばしる。
同時に、サングラの死が流れ込んで来た。
(サングラ! サングラ!)
ラルコが繰り返し呼びかけるが、彼の魂は既に形を失い、冥界の闇に飲まれようとしている。
死の苦痛は何物にも勝り、その激流に翻弄されるラルコもまた、同じ痛みの中にいる。だがラルコはそんなことはおかまいなしに、失われつつある彼の魂を夢中でかき集め、自分の中に受け入れようとした。
(行くな、サングラ! 戻って来い!)
クロウレの時と同じように、彼の魂を蘇らせようと考えたわけではない。あの時とは、あまりにも状況が違いすぎる。
ラルコはただ、友の想いを少しでも留めておきたかっただけなのだ。
辛うじて拾い集めた魂のかけらはやがて小さな星となり、ラルコの中で瞬き始める。
呼びかけても応えはない。ただ、彼の自我が消え去る寸前、かすかな声が響いてきた。
(おかあさん……)
サングラ・カリグー。
彼が持つカリグーの姓は、物心つく前に暁の館に保護され名を与えられたことの証だ。その彼が、生みの親のことなど憶えているはずがない。
でも彼が生涯の終わりに漏らしたその言葉は、紛れもない母の記憶。
彼の魂が放つ若草色の輝きは、かつて母の胸に抱かれながら見上げた、新緑の葉の色なのだった。
おそらくこれまでの人生で一度も口にしたことはなかったであろう、その言葉をラルコの胸に残して、サングラは去った。
すがりつく手から逃れるように、彼が昇って行く。天に召されるかのように、ゆっくりと。
だが引き止めようとするラルコの眼に映るのは、神の救いとは真逆の、より無慈悲な現実。
魔獣が腕を掲げ、串刺しにした彼の身体を吊し上げようとしているのだった。
「グルルル……」
魔獣がサングラを睨みつけながら、唸り声を上げる。
ラルコは彼を取り戻そうと、肘までしかない右腕を延ばしなおもすがりつこうとした。その時。
サングラの身体を無数の黒槍が貫き、ズタズタに切り裂いた。
「おのれ、よくも……よくも……、か、下等動物めが……」
離れた場所で、どす黒い血に全身を濡らしたマドゥクランが、喘ぎ声をもらしながらこちらに手をのばしている。
茫然と見つめるラルコの顔に、驟雨となって鮮血が降り注ぐ。
暴虐の雨はラルコの精神世界の中にまで降り広がり、アウラの白い水底を赤く染めた。
静まったかに見えていたうねりが、再び動き出す。天雨の恵みを受けた大地が、歓喜にむせぶように。
だがラルコは、自分の中で起きている事態にいまだ気付かない。
魔獣は再び唸り声をあげると、ボロボロになった彼の身体を、振りほどくように地面に叩き付けた。
「グオウッ! ガオッ!」
憎々しげに声を放ちながら、物言わぬ肢体を蹴り、泥と草の上に踏み付ける。
何の抵抗も見せぬ、壊れた人形のようにただ横たわるだけの身体を何度も、何度も。
(やめろ……、やめろ……)
言葉を投げようとしても、唇はただ震えるのみ。
蹴られるごとに、彼の身体は生きているがごとく激しく跳ね上がる。だが間近に向き合うその眼に光はなく、薄く開いた口元は苦鳴をもらすこともない。
(やめろ……! やめろ……!)
声にならぬ声は魔獣に届かない。
周囲に聞き届ける者もない。ラルコ自身も知らぬ、ただ一つのものを除いて。
それは、人にあらず。魔獣にあらず。魔人にあらず。
アウラの奥底に潜み、魂の叫びに応えて身をよじらせる、姿なき者。
(僕はなんて無力なんだ。友を救うことともできず、こんな所で泥にまみれて死んでいくのか。
まだ何もしていない。誰も守っていない。
ちくしょう、このまま終わりになんかさせるもんか!)
赤いうねりは、いつしか激しい脈動へと変化していた。
そしてラルコの魂もまた同じく、脈打つように激しく悶え、喘ぐ。
脈動が喘ぎをもたらすのか、喘ぎが脈動を呼び起こすのか。両者は激しさを増しながらやがて一つとなり、彼の魂を目覚めさせた。
瞳が虹色の煌き光を放つ。全身から白金の光がほとばしり、森の木々を照らした。
突然沸き起こった輝きに、魔獣はわずかにたじろぐような仕草を見せたが、それが更なる憤りを呼び起こしたか、唸り声をあげながらサングラの頭を踏み付けにした。
(やめろーっ!)
怒りが力を呼び覚まし、敵へと走らせる。
白金の輝きは光の刃へと姿を変え、魔獣の身体を一瞬で切り刻んだ。
無数の肉片が、黒い毒血とともに彼の上に降りそそぐ。アウラの光はそれを排することなく、なぜか全てを自らの内に受け入れた。
だがラルコは知らず。理性は既に失われ、むき出しになった本能のみが今の彼を支配していた。
そして闇の奥底で、姿なき者が告げる。
(贄は受けたり! 今こそ我が業望の果たされん時!)
その言葉とともに、血に塗れたアウラの水底に亀裂が走り、鮮血の炎を噴き上げる。
虹色の光彩は闇よりも深い真紅へ、白金の輝きは光は灼熱の閃光へと移り、周囲を血の色に染める。
魂の水底はついに崩れ果て、同時にラルコの自我も砕けて消えた。
漆黒の奈落から、巨大な何かが身を起こす。
そして咆哮が響き渡った。




