64.忌まわしき道化の追憶
「なにっ!」
「クク……」
予想だにしなかった名前。その瞬間、ラルコは完全に思考を停止してしまい、全くの無防備状態に陥っていた。
もしもその時敵の攻撃を受けていたら、一撃で敗北を喫していただろう。相手も自分の思索に沈みこちらに注意をむけていなかったことは、正に幸運としか言いようがない。
(あり得ない、こいつがドーク先生の恩師と同じ名前だって?
まさか……!)
信じたくはないが、かといってその名が偶然に出るとはさらに考え難い。
混乱の中、ある恐ろしい想像が脳裏をよぎる。
(崩魔。ドーク先生がかつて語った、人が絶望の果てに魔族に転堕するという悲劇の現象だ。
でもまさか、この魔人の正体がメルディア様だというのか。
そんなことが本当に……。いや、絶対にあるはずがない、あってはならないことだ。人が、これほどまでに無残な姿に変わり果ててしまうだなんて)
そして魔人が次に放った言葉は、ラルコをさらなる混乱に陥れた。
「おう、これは失言失態。こは我が名にあらず、わが愛しき旧敵の名であった。クックックッ」
「な…に……?」
(こいつっ! 馬鹿にしているのか!)
怒りが沸騰し、思わず剣先を向けて斬りかかりそうになる。それを思い止まったのは、その言葉に秘められた重大な意味に気付いたからだ。
(くそっ、落ち着け。こいつは僕をからかっている訳じゃない。僕がメルディア様の名を知っていることを、こいつが知るはずはないんだ。
それよりもむしろ、その名前がこいつの口から出たことの方が重要だ。
旧敵とは? この魔人は、メルディア様と戦ったことがあるというのか。もしや、あの方の行方を……)
メルディア師の名が虚言だったとしても、魔人がその名前を知識として持っていることには違いない。
この事実を、どう捉えればよいのか。
「お前は、メルディア様を知っているのか」
「おお、よく知るぞ。我とメルディアブラージェは共に旅をし、彼の者はそう、我に名を与えてくれたのだ」
「なんだって!」
メルディア師が魔人と旅を。いったい何が起きていたのか、状況がまるで読めない。
「懐かしきかな。もはや幾十歳も古のことだ。
我とメルディアブラージェは、はるか北の地で出会ったのだ」
北の地とは……、ロスコアだろうか。
若かりし頃の修業の旅路でのことか、あるいは最後の旅立ち、この森の奥へと去って行った後の出来事か。
もし後者だとしたら、この魔人は誰にも伝えられていない旅の行く末を知っているということになる。
「かの者は素晴らしきゴウラの持ち主であった。我はかの魂を喰らわんと何度も襲ったのだ。
なれどかの者は強かった。それもまた良きかな、打たれ、斬られるほどにゴウラは輝き、その芳しき匂いに至上の美味を想い望ません。
幾度挑み討たれ死にかかったことか。だが我は死なぬ、メルディアブラージェの力をもってついに我を殺すことは能わず、我もまたメルディアブラージェを殺し喰らうことはかなわなかった。
そしていつしか、メルディアブラージェは我に名を与えたもうたのだ。
なんと楽しき道行きであったことか」
「それで、あのお方はその後どうなされたんだ?」
「知らぬ。ある日、突然に姿が見えなかった。我は寂しのあまり慟哭に震え探行に走ったが、その日よりついに出会えぬ。
メルディアブラージェは消えてしまった。我に、マドゥクランの名と尽きぬ飢えを残して」
「マドゥクラン……」
「古の語にて、忌まわしき道化と意するそうな。まさに至福! 至幸なり! クックックッ」
メルディア師がどういう意図で、この魔人に名を与えたのか。
いやもしかすると与えたのではなく、単に呼び捨てただけなのかも知れない。
共に旅をしたというのも、どうやら魔人が勝手に付きまとっていただけのようであるし。ひょっとして師は、あまりのしつこさに嫌気がさして逃げ出したのでは?
と、魔人の妙に人を食った態度を見て、ラルコはそう思った。
「だがメルディアブラージェは去った。我が暴虐の王も人に敗れ、王国は灰と消えた。
我が至福の時は終え去ったのだ」
ラルコは息を飲む。
王国、暴虐の王。ついに核心となる言葉が吐き出された。メルディア師の消息も気になるが、こちらを見過ごすわけにはいかない。
ラルコは慎重に言葉を選び、次なる質問を発した。
「魔王は……、復活したのではないのか?」
次の瞬間、魔人の全身から激しい怒気が湧き上がった。
「ギャンッ!」
ほとばしる黒い炎に、隣に控えていた魔獣が悲鳴をあげて飛びのく。
地面に縫い付けられていたもう一体の魔獣も、その拍子に縛りが解けたのか転がるようにしてその場を逃れた。
「王が復活であると?! それはどの輩のことなるか!
我は認めぬ! あのような偽り者が我らが王だなどと、断じてあってなるものか!」
ラルコは予想外の反応にとまどいつつも、相手の動揺を好機ととらえ、魔人と正面からにらみ合いながらその思考を読み取ろうと意識を集中させた。
記憶のより深い部分に侵入し、探りを入れたい衝動に駆られたが、かろうじてそれは思い止まる。
相手は精神感応の能力を持っているのだ。漏れ出る意識を受け入れるだけならともかく、こちらから積極的に干渉しようとすると感付かれる恐れがある。
それよりも言葉による問いを投げ、相手が意識の表面により多くの情報を浮かび上がらせるよう、誘いかける方が有効だ。
「偽りの王とは? 何者なんだ?」
「何者? 知らぬわ。ああ、龍族の王には違いない、その姿形もたしかに我が王に似せてはいる。
だがかの者が隠し秘めたるゴウラは、決して我が同胞を統べる者が持つべきものではない!
邪悪な! 醜悪な! 何処の根に生まれたかは知らぬが裏切り者の臭気にまみれておる!
我らが王はただ一つ、かの暴嵐の黒龍王以外にあり得ぬ。かの偽の者が北の地を統べるというなら、我は別の地にて己が王国を作りあげるのみ!
そして来るべき日には再び北に攻め上がり、憎き仇を滅ぼし我が真王へ捧ぐ贄としてくれるのだ!」
(なるほど、状況が判ってきた。
魔王復活の真相は、やはりかつての魔王が復活したのではなく、新たな魔王が現れたということらしい。
でもどうやら敵も一枚岩という訳ではなく、この魔人のように反目する者もいる。あるいは、今まさに覇権闘争が始まろうとしているのかも知れない)
ラルコは、魔人の意識を探り新たな魔王がどのような姿をしているのかを読み取ろうとした。
魔人の心に浮かんでいるのは、漆黒に染まる巨龍の影だ。
おぼろげながらも、大きな翼と長く太い尾はヴァイザルの天覇龍を彷彿とさせる。そして血の色に染まる眼光。心臓が潰れるほどの威圧感は、魔人の持つイマージュによるものか。
それに抗おうとする激しい憎悪が、同時に流れ込んで来た。
だがその影像を見た瞬間にラルコを襲った衝撃は、魔人から流れ来た畏怖の感情とは全く別種のものだった。
(僕は、この者を知っている!)
底知れぬ恐怖が沸き上がり、心を侵食する。
魂の奥底から、何者かの声が聞こえてくる。我を目めさせよ、我を解き放て、と。
違う、この龍王の影と自分の中に眠る何者かは同じではない。真逆の、だが内と外の両方から同様の苛烈さで自分を責め立ててくる。
「我は力を付けねばならぬ。より大きな、偽りの王を撃ち破るほどに。
そのためにはより強きゴウラを喰らい、我が身の内に捕り込む必要があるのだ。
ラルコカンターラよ、貴様のゴウラは素晴らしい。かのメルディアブラージェにも勝る、我が同胞にも類を見ぬほどに強く、烈なる。
貴様を喰らえば我がゴウラはより強大に、何者にも劣せぬ力を得ることができよう。
今ここに我が糧となりて、暴血の野望に貢せよ!
XxXXX! xxxxXX!!」
最後の叫びは、左右に控える大型魔獣に向けて放ったものだった。
その声が響くと同時に、二体の魔獣は地を蹴り二十マールの距離を一脚で跳んで、ラルコに襲いかかる。
ラルコは後ろに跳び退りながら右手に光剣を閃かせ、左手で腰の短剣を抜き放った。




