63.魔獣か魔人か
結界から一歩足を踏み出したとたんに、背後にいるはずの仲間たちの気配が一瞬でかき消えたことに、ラルコは少なからず衝撃を受けた。
単に姿が見えないだけではない。それならば、自分と魔獣たちの間に大きな空白地帯ができてしまうはずだ。
なのに、思わず振り返ったその眼に映るのは、間近にせまる魔獣の群れ。
そこにはわずかの間隙すら見出すことはできず、再び姿を現した敵に狂喜した魔獣が一直線に飛びかかって来る。どれほど眼をこらしても、意識を集中しても、そのようにしか認識できなかった。
(すごいな。ここまで完璧な隠れ方をするなんて。
うん、これなら大丈夫だろう。後は頼んだぞ、サングラ)
怒涛のごとく襲いかかってくる魔獣の牙も爪も、ラルコの強固な結界に阻まれてその身体には届かない。
ラルコは魔獣たちの意識が完全に自分に向いているのを確かめると、力の発揮を抑えて通常の光鎧に戻した。
自分一人の身を守るだけなら、これで充分だ。無駄な殺生をするつもりはない。
彼方から向かい来る強敵がこちらを認識したのも、アウラの光を放った瞬間にまたもや驚愕を伝えてきたことで既に確認済みだ。
ラルコは立ちふさがる魔獣たちをものともせず、森を貫く回廊を歩み出した。
初めはゆっくりと、それから少しずつ脚を速めていく。時折光剣を振るって魔獣を打ち飛ばし、敵の注意が自分から離れないよう程よく敵意を振りまきながら。
狙い通り、群れなす魔獣どもはこの獲物を逃がすまいと一斉に後を追って来た。
そして前方にも無数の獣が、行く手を阻もうとする。彼の敵もラルコが向かってくる気配を察知しているはずだが、なおも慌てることなく、ゆっくり歩を進めてくる。
そこにいる三体が、この小型獣の群れと無関係のはずがない。だが騎士団がすでに百を超す仲間の命を奪っているというのに、彼の者たちからは怒りや憎悪の感情は感じ取れない。
ただ獲物を狩る喜びと探るような期待感のみが、彼らの心を満たしていた。
敵が示す予想外の余裕に、ラルコはやや緊張気味にアウラを沸き立たせ、全身を更なる光で包み込んだ。
彼我の距離は既に百マールを切った。道が大きく湾曲しているので姿はまだ見えないが、そこを回り切ればすぐ目の前に現れるはずだ。
相手が立ち止まる気配が感じられた。だがラルコは脚を緩めない。
続いて何かを叫ぶような声。すると魔獣たちは攻撃をやめ、一斉に森の中へと姿を消した。
ラルコは両手で光剣をかまえ、最後の木立の脇を駆け抜けた。
そこに、予測どおり三体の魔獣が立ちはだかっていた。
約二十マールの距離を隔てて対峙する。
三体のうち両側に立つ二体は、体高はおそらく三マールを越えるだろう。
姿形は、なるほど小型魔獣に通じるものを備えている。体格や肉付きが桁違いのため全く別種のような印象を受けるが、顔立ちや毛並みなどの特徴を見れば、彼らの同族であることは瞭然だ。
騎士団の誰よりも大きいが、昨日の黒牙狼と較べれば、とてもかなわぬと怖気づくほどではない。
ただしそれは、身に秘めた力が見た目どおりであればの話だ。ほとばしるアウラ、果たしてアウラと呼んで良いのかは定かでないが、そこから読み取れる邪悪なる魂の大きさと強靭さは、黒牙狼をはるかにしのいでいる。
そして中央の一体は、体高およそ二マール。人間よりは大きいが他の二体と較べればむしろ小柄とさえ感じる。
だが遠方から意識を読むだけでは知ることのできなかったその姿に、ラルコは衝撃を受けた。
いや、外観はさほど異なっている訳ではない。鼠を想起させる顔立ちも、濃灰色の短い毛におおわれた体も、他の魔獣と同様だ。
だが、大猿のような印象通り脚を大きく開き肩を怒らせてこちらに挑みかかろうとする二体に対し、その一体のみは、両脚をそろえ背筋を伸ばし、まるで騎士が礼をとるがごとき直立の姿勢で彼を迎えたのだ。
その立ち姿は、魔獣というよりもむしろ人間に近いような印象だ。
さらに、その口から放たれた声にラルコは衝撃を受けた。
「ククク。これはこれは、なにゆえに楽しみなことだ」
(人間の言葉! しかも、ブルメリア語だって?!)
「長かる旅の末路に久しく美味そうな人の群れを見つけりと勇び喜び参ったが、よもやこれほどまったく生きの輝くゴウラにめぐり合いたもうなるは。
慶兆慶兆。ククク……」
ザラザラと耳に障る濁った声色と、不快な含み笑い。
奇妙でぎこちない言い回しは流暢とは言い難いものの、聞き取れないほど難解ではない。外国の者の言葉と思えば会話としては充分だ。
だが、ゴウラとは?
ラルコは素早く相手の意識を読み取り、その意味を知ってさらに驚愕した。
(アウラのことか! この魔獣は、アウラを理解しているというのか!)
魔獣、いや魔族あるいは魔人と呼ぶべきか。その者は、剣を構えたまま立ち尽くすラルコに向かって、ぐいと牙をむき出す。
だがそれは威嚇ではなく、ニヤリと笑ったように見受けられた。
「人の群れの絶えさるは、貴様の手練れたるか。まずは良きかな。貴様を喰らいせば、ふたたび捕えんたろう」
(どうやら、仲間たちが消えたのは僕のしわざと勘違いしているようだ。それならそれで好都合だけど。
でも、そんなことよりも)
「お前はいったい、何者だ」
ラルコの問いに、魔人は首をかしげる。
「なにもの? なに……? おおう、名か。我なる名を知るなるか、ならばよし」
魔人はこちらに襲いかかろうとする様子はなく、対話に応じる素振りを見せている。
当初の予定では問答無用で打ち据えて相手を怒らせ、その後は逃げ回って騎士団から引き離すつもりだったのだが、完全に出鼻をくじかれた格好になってしまった。
こうなっては仕方がない。ラルコは焦る心を静め、素早く思考をめぐらせた。
(早くここを離れないと、皆が眼を覚ましてしまうかも知れない。でも魔族と会話ができるなんてめったにない、ある意味奇跡のような状況だ。
ここは奴からできる限りの言葉を引き出して、情報収集に努めるべきだろうか。しかし……)
逡巡しながらも対話を進めようと剣を降ろしかけたその時、大型魔獣の一頭が突然咆哮をあげ、こちらに向かって突進してきた。
ラルコはとっさに剣を構え直し、迎え討とうとした。が。
「グギャウッ!」
その魔獣は数歩も進まぬうちに地面に身体を投げ出し、苦悶の声を上げた。
「ゴワッ! ガウッ! ガアアッ!」
魔獣は立ち上がろうとするが、すぐにまた倒れ伏し、手足で地面を打ちながら怒号を放つ。その姿はまるで、見えない何者かに叩き伏せられ、背中を踏みつけられてもがき苦しんでいるかのようだ。
だがラルコは見ていた。大型魔獣が飛び出した直後、魔人がその背中に鋭い怒気を撃ち放ったのを。
それはかつてクロウレが放った深紅の光弾を思い起こさせる。だが魔人のそれはより昏く烈しく、長槍のごとき苛烈さで魔獣の肉体と精神を貫いた。
「愚か! 我が許しは得ず! 我が楽しみは邪魔だてを好まず!」
魔獣は地面を転がり回ることすら許されず、その場に縫い付けられたように手脚のみを暴れさせている。よほど苦しいのか、口を大きく開き涙と涎を垂れ流しながら苦悶にあえいでいた。
魔人はその姿を冷めた眼で一瞥し、再びラルコに向き合う。
その仕草も、ラルコの眼には完全に人間のものとしか映らなかった。
「さて、我が名を知るを欲するか。ならばよし、まずは貴様より名乗らん」
先にこちらに名乗れと、確かにそれは道理だ。だがラルコは、魔人のその言葉にもとまどいを憶えずにいられない。
(さっきよりも話し方が自然になってきている。このわずかの間に言葉を学んで、いや思い出しているのか)
相手が対話を望むというのなら、それに乗ってみるのも一つの手だ。
騎士団が目覚めてしまわないかは気がかりだが、かといってこの好機を無駄にはしたくない。
ラルコは覚悟を決め、構えを解いて魔人に向き合った。
「僕は、ラルコ・カンターラだ」
剣を下げ、その言葉を発した刹那。何の前触れもなく発せられた敵のゴウラが、ラルコの身体を射貫いた。
「ぐうっ……!」
その時のラルコに、一片の油断もなかったと言えば嘘になる。魔人が戦いよりも対話を好んでいると、勝手に思い込んでいたのは確かだ。
だが、相手の意識を逐一読み取り、わずかな敵意にも即応できる姿勢は崩してはいなかったはずなのだ。
にもかかわらず、その気配を感じることが出来なかった。つまりそれは、相手も無意識のうちに、本能的にそれを行ったということだ。
(くそっ、こんなもので!)
身体の中心を串刺しにされた感覚。五感が麻痺するほどの激痛と痺れが全身を襲う。
だがたとえどれほどの苦痛であっても、死の痛みを知る者を屈服させるには至らない。ラルコはアウラの光を奮い立たせ、彼を支配しようとしている漆黒の長槍を粉砕した。
「はあっ、はあっ……」
やはり、魔人の武器は精神攻撃だ。
先ほどは睡魔を、今度は苦痛を。今のところは何とか対処できているが、これが本気とは到底思えない。
「ククク……、なかなかに見事ではないか。
ラルコカンターラなるか。ならば憶えておこう」
「では、次はお前の番だ。名を聞かせてもらおう」
「ふむ……、はて……? 名は……、確かにある。あったに違わぬが……」
自分の名を忘れてしまったのだろうか。あるいはそれは、長らく人と会話をせず名前を必要としなかったということなのかも知れない。
魔人は暫くのあいだ首を傾げながら思い出そうとしている様子だったが、やがて「おう」とうなずいて再びラルコに向き合った。
「うむ、さては名乗ろう。我が名は……」
次にその口から発せられた言葉に、ラルコは凍り付いた。
「メルディアブラージェなる」




