46.北東区第二域、名も知れぬ裏酒場
目当ての男は、店の奥の薄暗いテーブルでひとり、麦酒の杯を傾けていた。
「やあやあ、どーも。待った?」
上等とは決して言えない薄汚れた服装に、伸ばし放題の髭。いかにも裏街にふさわしい風体のその男は、上目遣いにリュカスを睨むと、テーブルの上を顎で指した。
そこには、空になった杯が四つ五つ。つまり、それを飲み干すだけの時間を待ったという意味だ。
それを見たリュカスはフム、と小さくうなずいてから、男の向かいの席に腰をおろした。
「まあまあ、ここの支払いは僕が持つから気を悪くしないでよ。もう一杯どうだい?」
「そうか、じゃあ遠慮なく御馳走になるとするよ」
男はボソリと呟いて立ち上がり、カウンターの方へと向かった。
そして蒸留酒のボトルを一本とグラスを二つ手にして戻ってくる。グラスのひとつをリュカスの前に置き、酒を注いだ。
「あんたも飲むだろう?」
「ああ、有難う。って、ちょっとそれ見せて!」
リュカスは、男が続いて自分のグラスになみなみと酒を注いでいる、そのラベルを見たとたんに眼を剥いて、ボトルを奪い取った。
「ヴォルージュ18年の黒。ちょっ、なんでこんな上等な酒がこんな店に置いてあるんだよ。
いったいいくらするんだ、これ」
男は琥珀色の液体で溢れそうなグラスを口に運びながら、ニヤリと笑った。
「ああ、いい香りだ。これ、以前から一度飲んでみたかったんだよな。ごちそうさん」
「せめて水で割れよ、もったいない」
「こんなうまい酒を割ったりしたら、それこそもったいないだろ。
遠慮すんな、どうせ払いはあんただ。ククッ」
「くそっ」
リュカスはグラスを取り上げると、一気に飲み干した。
「ふう」
「いい飲みっぷりだ。さすがは元門衛騎士団の貴公子」
「うるさい、元山賊団の首領。で、その後どうなんだい? 何か新しい情報は入ったのか?」
リュカスは空になったグラスに自分で酒を注ぎながら、男を睨みつけた。
「そうさなあ。まあ、いくつかは手に入れたよ。
でも苦労したぜ。何しろ相手はあの聖王宮だからな、下手な小細工は藪蛇になっちまう」
「前置きはいい。それで?」
「まあまあそう慌てるなよ、うまい酒でも飲みながらのんびりやろうぜ」
男はグラスを傾けつつ、余裕たっぷりの笑みを浮かべた。
「お前さん、暁の館って知ってるかい?」
「いや、初めて聞く名だな。」
「聖王宮が管理している孤児院の一つさ」
それを聞いて、リュカスは眉をひそめた。
「教会や聖王宮の孤児院なら、僕も一通りは調べたさ。でもそんな名前は耳にしたことはなかったぞ」
「ああ、外部には秘匿されている。
表向きは、おっと表向きは存在すらしていないんだった。まあ一応は孤児院という体裁だがな。
その実態は、勇者の養成機関だそうだ」
「勇者? あの、野良の魔導士くずれどもか?」
「クックッ。まあ、まっとうに表社会で生きているあんたから見れば、勇者なんてそんなもんだろう。実際、世間で勇者だなんだと持てはやされているのは大した連中じゃないからな。
だけどな、本物はすごいぜ」
「僕も噂くらいは聞いているよ。とにかく腕自慢の自由人で、悪に屈せず権力にこびず、剣と魔道で悪い奴らをめった打ち。天下無敵の正義の味方だ。
でもさ、噂には尾ひれってものが付きものだから。それを抜きにして考えれば、やっぱ大した連中とは思えないね。
魔道が使えるってのはすごいと思うけど、王宮にだって魔導士や魔道騎士は大勢いる。いくら腕に自信があると言ったって、しょせんは風来坊だ。ちゃんとした訓練を受けた騎士達に較べれば……」
そこでリュカスは、何かに気付いたように言葉を止めた。
「ちゃんとした訓練……。まさか、聖王宮がそれを?」
「そういうことだ」
男がうなずく。
「勇者なんてかっこいい名前で呼んでいるが、要するに聖王宮直属の魔道兵団ってことだよ。俺もそんなものがあるなんて全然知らなかったけどな。
いずれにせよ、世間に名の知れているチンピラなんかとは全然別格の、本物の戦士達だ」
「くそ、騙された。何が身の安全は保証するだ、兵士に安全も何もあるものか。あの男め……」
グラスを強く握ったまま唇を噛むリュカスに、男はフンと鼻を鳴らした。
「あの男ね。そのタダン・ドークという男の正体も判ったぜ」
「というと?」
「何を隠そう、そいつが暁の館の館長だ」
「なんだって? それじゃああいつは最初からラルコくんを兵士に育て上げるつもりで……。でもどうして、あの子を」
「さあ? その子供に魔導士の才能でもあったんじゃないのか?」
「まさか。いや、待てよ……」
(ラルコくんがロスコアから来た可能性は、充分に高い。聖王宮があの子を欲しがるなら、政争の道具としてよりも、むしろ魔道帝国の申し子としての可能性にこそ興味を持ったと考えるのが正解か。
でも、魔導士の才能って何だ。あの子にそんな才能があるなんて、どうして判るんだ)
「それと、タダン・ドーク自身も勇者らしいぜ。というより、それについてはあんたの方が詳しいはずじゃないのか?」
「どういう意味だ?」
「例の、ツンドゥールカ動乱さ。あの戦争には、騎士団だけじゃなく聖王宮の連中も加わって、一緒に戦っていたらしい。
そこでのドークとかいう奴の活躍は、とても人間技とは思えないほど凄まじいものだったそうだぜ」
「へえ、そうなのか」
「いわく、魔獣千体の群れを剣一本で殲滅した。いわく、巨大な龍を一薙ぎでぶった斬った。いわく、空飛ぶ魔族を雷撃で……」
「ああ、もういい。おとぎ話を聞きに来たわけじゃないんだ」
「ククッ、おとぎ話か。でも話してくれた騎士団の連中は皆本気だったぜ。
嘘だと思うなら自分の耳で聞いてみればいい、おなじみの副団長さんにでもさ。あの人もロスコアに行っていたんだろう?」
「とっくに聞いてみたさ。でもあの髭ダルマめ、僕が何を聞いても知らんぷりしていたくせに」
「ドークという男については、騎士団中に緘口令が敷かれているみたいだからな。でもまあ、中にはしゃべりたくて仕方のない奴もたくさんいるってことだ」
「いったいどうやって……、いや聞かなくても判る。こうやってだよね」
リュカスは左手で男のグラスに酒をつぎ足しながら、右手で懐から金袋を取り出し、テーブルの上に置いた。
男も嬉しそうに右手でグラスを、左手で金袋を掴み取る。
「そういうこと。まあ顔の売れているあんたが相手じゃ、連中の口も重くなるのは仕方ない。
俺みたいな素性の知れない者の方が、しがらみもなくしゃべりやすいってもんさね」
「わかってるよ」
(魔道兵団か。聖王教会がきれいごとばかりじゃないのは判り切ったことだけど、だからと言ってそんな武力を表立って使えるわけがない。
ということはつまり、暗部。いったい聖王宮は、それを使って何をしようとしているんだ)
「急に黙っちまって、どうしたい?」
「いや。で、副王派の方は?」
「特に新しい情報はないな。やっぱりあっちは、この件には大して関わってはいないようだ。
たぶん役所の伝手で口利きをしただけたろう。ま、聖王宮に何かを頼まれて断ろうなんて根性のある役人がいるはずもないし、むしろ恩を売れるとなれば喜んで尻尾を振るだろうよ」
「そうだね。
まあ、少し安心したよ。あの連中を相手に、余計なカードの引き合いをせずに済んだ。
その意味では、聖王宮に感謝かな」
「だが、それにしては……」
「何だい?」
「副王派の動きがちょっと慌ただしい。いや副王派というより、副王付きの連中かな」
それを聞いて、リュカスは苦笑した。
「そりゃ、あの副王様のお世話係は大変だろうさ。なにしろ、自由と気まぐれが服を着て歩いているような人だからね」
「それだけじゃない、騎士団の中にも何やらおかしな空気が流れているぞ。
まるで戦を前にしているような」
「そうか……。副王様と騎士団、もしもその二つが結びつくとなると……」
リュカスはグラスを口に運ぶと、始めは何かを考えながら舐めるように、それからグイと一気に飲み干した。
「わかった、ありがとう。また何かあったら聞かせてくれ」
「ほいよ。ところで、俺も一つ聞いていいかい?」
グラスを置きながら立ち上がりかけたリュカスに、男が声をかける。
「なんだい?」
「あんたの目的は、いったい何なんだ?」
その唐突な質問に、リュカスは変わらぬ飄々とした顔で言い放った。
「目的? もちろん、この国の未来さ」
肩をすくめる男に軽く手を振り、リュカスはカウンターに向かった。
そちらで聞こえよがしに大きく舌打ちをしながら支払いを済ませると、男を一睨みしてから、店を後にした。
「やれやれ、とんだ散財だった。
にしても、聖王宮はとりあえず様子見として、だ。副王派の役人連中よりも、むしろ騎士団の動きの方が気になるな。
ずいぶん長いこと遊んでいたけど、そろそろ古巣に戻る頃合いかな」
リュカスは酔客らしく上機嫌に鼻歌を漏らしつつ、軽い足取りで通りを歩く。フリをしておいて、来た時と同じようにふいに横道へ入った。
すると、彼の少し後ろを歩いていた男が、慌てたように走り出した。
店にいた男ではない。薄茶の外套に小つばの帽子をかぶった、一見旅人風の格好をした男だ。
男はリュカスの後を追って、同じ横道へと駆け込んだ。
そこに、リュカスが待ちかまえていた。
男は真正面からぶつかりそうになった相手が彼と気付き、ギクリとして足を止める。
リュカスは男の顔を間近に見据えながら、一瞬の隙に男が腰に差していた短剣を引き抜き、その脇腹に突き刺した。
「うっ!」
相手の耳元に口を寄せ、素早く囁く。
「動かないでね。声も出しちゃ駄目だよ。
大丈夫、内臓は傷つけてないから、このままそっと引き抜けば大した傷にはならないよ。
でも、ちょっとでも捻ったらもう助からないから、変に抵抗するのはやめてね。いい?」
男は驚愕に目を見開いたまま、小さくうなずく。
「どこのどちら様? なんて、聞いても答えちゃくれないよね。いいよ、答えなくても。
でもさ、僕は女の子に追いかけられるのは嫌いじゃないけど、男はゴメンだから。後を尾けるのはここまでにして、このままじっとしていてね。動いたら死ぬからね。
じゃ」
リュカスは一方的に喋るだけしゃべると、短剣からそっと手を離し、クルリと後ろを向いた。
男は、震える手で自分の腹に突き立てられた短剣を掴んだ。そして立ち去ろうとするリュカスをキッと睨み付けると、その剣を引き抜き背後から襲いかかった。
「死ねっ!」
前を行くリュカスの右手が、微かに震えたように見えた。
次の瞬間、振りかぶった男の剣は手首ごと斬り飛ばされ、続いて首元に横一文字の赤い筋。そこから鮮血が噴き出すと同時に、男は声も上げずその場に崩れ落ちた。
リュカスは振り返ることもなく、抜き放った細剣を腰の鞘に納めながら、やれやれとつぶやいた。
「だから、動いたら死ぬよって言ったのに。
あーあ、やだやだ。仕方ない、気分直しにサンカ姐さんの店にでも行くとするか」
肩をすくめ、足を速める。
灰色の背中は、街の暗闇に溶け込んですぐに見えなくなった。
―― * ―― * ――
それから、三年の月日が流れた。




