風に吹かれて
それは間違いなく複数の人間による足音だ。静かに誰かに気取られらないようにゆっくりと地を踏みしめる音だ。枝を誰かが割った。小指の骨を力任せに折ったような音が聞こえた。
僕は思わず飛び上がり、あたりを見回した。夜がひっそりと身を潜めて。葉っぱの間の空間には墨を流し込んだような暗黒が広がっていた。
ララが不安気な表情でこちらを見上げている。先ほどのしっとりとした心音は、緊張により乾いたものへと変わっていた。
彼女が僕の名を呼ぶ。僕はユユを抱き上げて、ララの手を握った。
ユユが目を擦りながら、どうしたのかと訊ねてきた。僕は努めて優しい声で何でもないと答える。しかし、緩い中にどこか聡いこの子はそんな演技に何かを感じ取ったようだった。彼女は口を結び直して僕にしがみついた。
闇がこちらを見ている気がした。冷や汗が背中を伝う。
「こっちへ」そう言ってララの手を引いて走り出した。どこへ行けばいい。どうしたらいい。僕はこの時混乱していた。まだ見ぬ未来への希望と今の不安がごちゃ混ぜになって頭の中で螺旋を描いていた。
どこに行っても何かがいるような気がする。
この枝葉をかき分けた瞬間に、僕の同僚が僕を捉えるために剣を持って襲い来る。そんな幻想さえ見えた。ダメだ。どの道、不可能だったのではないか。僕がララに唱えた未来予想図は、所詮勢いに任せた若造の、穴だらけで無茶な計画だったのか。
「ヘンラー様」
どうすれば、安全に逃げられる。どうすれば、全てが上手くいくのか。葉音が聞こえる。どこにいる。どこまで迫ってきている。
「ヘンラー様!」
このままでは、彼女が、この子が、僕が。せめて僕だけでも。そう、僕だけが犠牲になれば全てが丸く収まる。僕が囮になり、ララ達を逃せば。
そうして、少し開けた場所にたどり着いた時。何度目かになる僕を呼ぶ声で、ふと我に返った。ララが息を切らして。僕の腕にしがみついた。
「……誰も。誰も追いかけてきていませんよ」
「え?」
「ヘンラー様、怖がらないで。そんなに震えないで。大丈夫、大丈夫なんですから」
そうして気付いた。小枝の音も、羽音も、全て僕が立てたものだ。感じた誰かの視線は、臆病風に吹かれたがために感じたものだった。
「へんあー、だいじょぶよー」
乾いた笑いと共に、全身の力が抜けた。
ユユとララが僕を抱きしめた。未熟で愚かだった。
「ねえ、ヘンラー様」
「……はい」
ララはまるで泣きじゃくる子供をなだめるように、回した手でゆっくりと僕の肩を叩きながら言った。
「私、不器用ですし、調整が出来ないんですが魔力を解放するくらいは出来ます。何かあったらそれで二人を護ることだって出来ます。料理は下手くそですがそれ以外の家事は人並みに出来ます。だから独りで全てを抱え込まないでください。独りで苦しまないでください。だって私達はこれから……三人で暮らしていくのでしょう?アナタ」
その言葉で、固まっていた氷のようなものが砕けた気がした。砕けて二人の温もりによって溶けだし、それは僕の瞳から、鼻からみっともなく流れ出した。
「へんあー、ぱぱになるの?じゃあけっこんしきしよー」
ユユの無邪気な声が、ララの優しい声が、二人の温もりが、全てが僕を丸く包んでいく。この思いを僕はキザったらしく表現する術を知らない。ただ単純に幸せだった。この時、臆病風に吹かれなければ聞けなかった言葉だったのかもしれない。あるいは吹かれなければ、このまま安穏と終われたのかもしれない……
その時、その場に別の人がいると気付いたのは、後ろのララを抱きしめた僕でもなく、二人の間に挟まれたユユでもなく、唯一前を見ていたララであった。
ララは、僕の腕をすり抜けて前に走った。
突如背中に吹いた不穏な生ぬるい突風。何事かと振り返った時、すでにララは一人の子供に胸を貫かれていた。子供は黒いコートの大人に挟まれて子供もフードを目深に被っており、顔は見えなかった。ただ濁った油のように虚ろに、夜光を反射する真紅の両目だけか見えていた。




