もういい
*
僕は、自分の心に嘘を付いていた。その点は認めようと思う。僕は、死にたいわけじゃなかった。彼女の言う通りだったと思う。
多分、居場所を探していた。
「ヘンラー様!」ララが僕の名を呼んだ。
「話は後にしましょう!」嘘だ。本当は今にでも話したかった。
でも、僕は今の衝動より、その先の未来に進みたい。
幸い後方を森で囲まれた村なので、そちらに逃げてしまえば捜査も難航するだろう。希望的観測でしかないが無策よりはまだマシだ。
「森をとりあえず抜けてしまいましょう。その先は帝国領です。軍の情報と引き換えに身柄を保護してもらえれば、安全は保証してくれると思います」
「ですが、森は……」
「ええ、ここからだとかなり長い道のりになりますね! ですが、今までの事に比べると何ていうか屁でもない気がします」
「ヘンラー様……」
「奥に入ってしまえば、ジキル・カーマインといえどそう手出しは出来ないでしょう。それに、今回の探し物は別のところで見つける事が出来たようです」
そう。だから、もうジキルには大軍を成して捜索する大義名分は無いのだ。これはあくまで彼の権限下でのみ許される程度に留まっているはずだ。いくらクーデター後、新王制となってしまったアドラスシアといえどそうそう勝手に軍を動かして村を襲うなんて出来ない。
そもそも、前王の頃ならばこのような事にはならなかったのだが……
どれほど走ったのだろうか。
ユユが痛いほどにしがみついている。
ララの体力も限界に近い。
僕は一旦立ち止まった。
「とりあえず、少し休憩しましょう」
ララは膝を付いて、大きく肩で息をしていた。
「は……い」
携帯食料を持参してきて良かった。どうやらララ達はまだ食事前だったようだ。僕は鞄から取り出した干し肉を二人に渡した。
食事を取り少し落ち着いたようで、ユユが眠気を訴えてきた。
「まま、すこしねむー」
そう言って目を擦りながらユユはララの膝を枕にして寝転がった。
ララが困った表情でこちらを見たので、僕は一度だけ頷いた。すると彼女は、柔らかい笑顔でユユの頭を優しく撫でた。
「夜までにもう少し奥へ行って野宿しましょう。それまでに食べられそうな物を拾いながら、少しずつ進んで行ければ多分大丈夫かと思います。幸いジキルは大軍を連れてこなかったようですし」
そうですね。と、それだけ呟いて無言になった。森のざわめきと、遠くから聞こえる人の声。近付いていると思ったので、僕はユユを背負い立ち上がった。
「ヘンラー様……その、大丈夫なのでしょうか?」
「ええ、こちらにはまだそこまで人を回す余裕がないと思います」
僕は言外に、残酷な事実を突きつけた。ララが逃げた事により、村は粛清にあっているかもしれない。野畑は焼かれ、男や子供は労働力として都に連れていかれる。女は――いや、流石に自国でそんなインモラルな事はしないだろう。ただ一つ言えるのがあるとすれば、僕達はあの村を裏切った事になるのだろう。一生恨まれ続ける。多分ユユも。この子にそんな宿命を背負わせるなんて酷だがそれでも僕は――
「それでは、私が身を差し出せば……」
「――僕は、まだこの世界が、それに享受して生きる人が嫌いです。多分まだ好きになれそうにはありません。ですが、こんなやり方間違っていると言うのも理解できます。しかし、僕の手はご覧の通り二本しかないんです。この二本の手で掴めるのは二つしかありませんし、隻眼で見つめる事が出来るのは一つしかありません。僕は僕のワガママに従って貴方を連れ去りました。上官に反した大罪人です。貴方は戻って、僕に拉致されたとでも言えば多分大丈夫だと思います」
「ヘンラー様……」少し後ろを歩くララが「あの時の口付けの事ですが……」と、少し切り出しにくそうに言った。
僕は黙って続きを促した。
「あの時。ああでもしないとヘンラー様が本当に死んでしまいそうな顔をしていましたから。その……衝動的に……です。いきなり、それも子持ちの女からなんて正直どうかなって思ったんですけど、気付いたら体が動いてました。ほら、ヘンラー様も言ってたじゃないですか。人って倫理観や理性ではどうしようもなくて、考えるより先に動いちゃう時があるって。あんな感じです……すみません、こんな時にする話じゃ無かったですね」
言い訳っぽく長々と繕う彼女の言葉の意味を理解し、正しく昇華させる事が出来ない僕は、つまりまだ子供なのだろう。
ただ、下心はなく純粋な意味で包み込むような口付けだったのは覚えている。背中越しに彼女が気まずそうにしているのが伝わってきた。だから――
「へー。つまり、僕が死にそうな顔をしていたから、貴方は慰めるつもりでキスをしたと?」
少しわざとらしく、おどけながら言って見せた。
ララが今度は焦っている。背中越しでも人の雰囲気というのは感じる事が出来るのだなと思った。
「け、決してそれだけで行ったわけじゃありませんから! 私も見境なしにそんな事はしないですし、なんと言いますか、貴方に惹かれるものがあったからであって……その……」
そのたじろぐ声がやけに幼く聞こえたので僕は思わず吹き出した。
「すみません。少し意地悪でしたね。はい、ララさんが誰とでも行うような人ならばこの数日間で何かあったはずでしょうし、そんな不埒な事はしないと僕は理解していますから大丈夫ですよ」
「もう、お戯れが過ぎます」
これで少しは、逃げた事への罪悪感は薄れただろうか?
燃え上がった火を絶やさないよう、言葉という薪をくべていった。それは些細な事でも、共通の話題では無くても、出会ってほんの数日しか経っていない僕とララは今まで他人であった二十数年の空白を埋めるように、お互いを理解し合おうとしていた。
些細な事でも、僕は共感し驚き、そしてまた切なさを感じた。僕は全身全霊をもって彼女を感じ取ろうとしていた。欠けた左の瞼にララの過去の情景が浮かぶ。浮かぶというよりは積もっていくの方が正しいのかもしれない。僕の空白は彼女で埋め尽くされていった。
夜になりユユも目覚め、三人で食事をした。眠気まなこを擦りながらもかじり付き、ほんの少しの会話をした。
焚き火はしなかった。煙で相手に気取られてはまずい。生で食べられる果物や携帯食料。道中にあった川から汲んだ水でこの日は凌いだ。
丸まって眠るユユが風邪をひかないよう布を被せて、僕とララは隣合って木に背中を預けた。
木々がざわめき、どこかで獣が鳴く。それだけだ。恐らく捜索の手も止まっている事だろう。
澄んだ空気が土のつんとした匂いを巻き上げている。
「ヘンラー様。空見てください」
そう言われて僕は上を見上げた。僕の口からは思わず間抜けな、締りのない声が零れた。
限りなく青に近い黒だった。ぽっかりと開いた森の天窓からは幾万、幾億にも及ぶ星の輝きがあった。その光が僕らの元に降り注いでいる。それは子供の頃に感じていた普通の生活への嫉妬や羨望。迫害する者達に植え付けられた憎悪や恐怖。脆弱な己への憤りや諦め。全てを洗い流すような白銀の洗礼だった。
神などと言うものが本当に存在するのなら、なんと無能な事なのだろう。日陰で暮らす弱者には見向きもせず、陽の当たる者の大半は冒涜的ではないか。正しく無いものが笑い、正しいものが泣きを見る。ここだってそうだ。誰もが少なからずそう感じているのではないか。
そんな節穴なものに祈る思いなど持ち合わせてはいない。それは、今も昔も、そしてこれからもきっと変わりはしないだろう。
だけど。
「ああ……」
それでも。この星空へ祈るのならば悪くない。そう思いながら、顔を両手で覆い隠し、涙と嗚咽が零れないようにした。
僕が今震えているのは、夜風が寒いからだ。森の水気を帯びた風はやはりどこでも冷たい。
彼女が肩に寄りかかるのを感じた。身体の温もりが染み込む。ララの匂いが鼻をくすぐる。甘く蠱惑的なそんな香りだ。
もう一度空を見上げる。白い星がこぼれ落ちてきた。いや雪だ。星のように白く輝く雪が降っていた。
僕はララの小さな肩を抱き寄せた。彼女がほんの少し固まった。顔を見られないように僕は空をずっと見上げていた。この騒がしい鼓動が彼女に聞こえなければいいのだが。
「ヘンラー様……」
僕の頬にひやりとした彼女の手の感覚が伝わった。彼女の指はそのまま力強く、僕の顔の向きを変えた。
ララの美しい顔はすぐ目の前にあった。寒さで赤くなった頬が鼻先が、熱く潤んだ瞳が。少し半開きになった口元を閉じて気取られないよう、唇を舐めるその仕草が、困ったような切ない表情が、全てが僕の視線を掴んで離さなかった。
ああ、このまま消えてしまうのではないか。
そんな一抹の不安が胸をちくりと刺す。話したい、これからも。離したくないこれからも。
「まず、帝国に行ったらまず市民権を獲得して仮宿を探しましょう。それからしばらくは、僕が冒険者としてまとまったお金を稼いで、その間にララさんには魔法を覚えてもらいます。やはり自衛が出来るのと出来ないのでは身の安全がかなり違ってきますので」
「はい」
「ララさんも自覚しているように、貴方の身体には強力な魔力が眠っています。ユユちゃんも今はまだ分からないですが、貴方の子なんですから相当な才能があると思います。落ち着いたらユユちゃんにはしっかりとした教育を受けてもらいましょう。そうですね、アドラスシア魔法学園なら神王陛下の目がありますので国の政権が及びません。安心して預けられます」
「はい」
「僕は何とかして定職に就きます。帝都を離れて田舎の村で暮らすのも悪くないですね」
「ヘンラー様」
「多分、豊かな生活は出来ないと思いますが、それでも――」「――もう、いいですか?」
しっとりとした唇が触れ合った。そして、彼女の舌に舐め取られるように僕の台詞は全て奪われた。
百の飾り立てた言葉を並べてみても、たった一つの真っ直ぐな口付けには敵わないのだということを僕は初めて知った。
震えるような指使いで腰を撫でられ、甘い吐息が頬をくすぐる。その度に僕の聴覚はより敏感になり微かな喘ぎ声すら聞き逃すまいとしていた。
その時であった。遠くの方で何かが近付いているのに気付いたのは……