ララ
*
あの時。私にあの御方を包み込む優しさがあれば、今も彼はどこか他人行儀な笑顔でこの家にいたのだろうか? 分からない。けど、あの御方を見ていると昔の私を思い出す。
真紅の左目をしていると言った。左目が潰れた時はどう思ったのだろうか。いや、もしかしたら潰したのかもしれない。忌まわれ、避けられ、消えたくなり、でも彼は……そう、ある意味では立ち向かおうとしていたのかもしれない。
私は逃げた。体内を巡る大きな魔力に恐れられ、避けられ、私が牙を剥かぬうちに牙を折られた。なぜ、神は全てを平等にして下さらなかったのか。全てが真っ平であれば一人一人が他者を恐れるような世界にはならなかったのに。
「ままー?」
「なーにー?」
いや、全てが真っ平ならばこんな可愛らしい子が私から産まれてこなかっただろう。
ふかふかの耳、暖かく柔らかい肌、無垢な瞳。私は娘のユユを抱き上げて頬ずりした。吸い付くようなもち肌と甘ったるい吐息が私に触れる。
平等じゃなくていいんだ。不平等である事に感謝しなければならない。だってそうでしょ。私が逃げ、行き着いた先にこの娘がこうして生きている。
「きょうは、へんあーごはんつくらないの?」
そうだ。今日は私が――今日から――ご飯を作らないといけないんだった。数日、彼に任せてしまっていたからすっかり忘れていた。
お腹空いたな。空腹時って胸の真ん中も痛くなるものだったかな。まるで細い針を真っ直ぐ突き刺したような痛みだった。
「ヘンラー様は、ちょっと……お出かけなさっているから、今日は私が作るわねー」
「えー、へんあーのごはん、ままよりおいしいからへんあーがいいー」
あれ、お腹空きすぎると。鼻の奥も痛くなったっけ。私はユユを下ろして、台所へと向かっていった。台所の窓越しにずっと見ていたヘンラーの料理している時の顔が、何かに熱中する少年のようなあどけない顔が、幻覚として私の前に現れた。
時折感じられた彼の視線。窓を通して繋がっていたのかもしれない。
あ――と、思わず声にならない声で呼びかけたら、その幻影は風に溶けていくように消えていった。
窓の中に映るのは、少しまぶたの腫れた私と、奥で服を着替える可愛らしいユユだけ。
前に戻っただけだ。そう。彼が重傷を負ってこの村に運ばれてきて、ユユが心配そうにするものだから、思わず私の家で面倒を見ると村長に頼んだあの日の前に。
野菜を切って煮込む。本当なら前日から準備した方が野菜の甘みが出ておいしいスープになるらしい。そう彼が言っていた。
「痛っ!」指を切った。
「まま! だいじょーぶ?」
ユユが慌てて駆け寄ってくる。私は怪我のない方の手で娘の頭を撫でた。
「大丈夫。大丈夫よ――」涙が零れたのは指を切ったから「――ちょっと痛いけどね……」
暖かく小さな手が頭に乗った。
「まま、いーこいーこね」
私はその小さな手を握りしめて胸に抱いた。多分この娘も。もしかしたら耳で辛い思いをするのかもしれない。私達は三人とも似ていた。どこかが他の人とは決定的に違う。欠落を持って産まれてきたのだ。
突如、ドアを叩く音が聞こえた。
「ララさんか」村長であった。
村長は酷く痛ましい声で、申し訳なさそうな声色で、でも確実に怒りを孕んだ声で言った。
「アドラスシア王国軍のジキル・カーマイン閣下がお越しになられている。ララさん、あんたを迎えに来たのだそうだ。差し出さなければ村をひっくり返してでも探すとの事なんだが……ララさん。あんた何者なんだい?」
分からなかった。いや、分かっていた。軍が私を連れていく理由なんて一つしかない。ただ、なぜ今になって。
村長が一歩ずつ近付いてくる。
ヘンラーがある人を探していると言った。それは私の事だったのか。では、付け入ったのは、私を油断させるため? 探るため? 今までのは全て演技だったということなのか。この数日間は全てウソだったというのか。あの他人行儀な笑顔も、やたらと初々しい表情も、昨日の言い合いも。あの眼帯の奥にケダモノの顔を隠していたという事だったの?
「いや……いや!」
「まま?」
理と知は必ずしも同じ方向へと進まない。
頭では分かっていた。私が大人しく身柄を差し出せばこの村に危害は及ばない。娘ももしかしたら私の身柄一つで、保護されて綺麗な施設へ預けられて立派な教育を受けることが出来るかもしれない。
私の魔力をどう使うのかは分からないが、もしかしたら私も賓客として迎え入れられるのかもしれない。
でも、私は既に村長を押し倒し、ユユを抱き上げて駆け出していた。
私はまた逃げる。
「待て!」村長が起き上がり追いかけてくる。
しかし所詮子供をだき抱えたままの女の脚。男の脚力に叶うはずもなく、差はみるみる縮まっていく。
こんな事ならば独学でも魔法の勉強をしていればよかった。浅はかで愚かな後悔を噛み締めながら、羽交い締めにされようとしていた。
その時。
「ララさん!」
そう言って一人の男性がユユを代わりに抱き、私の手を取り走った。
麻布にすっぽりと覆われて顔は見えないが、誰かはすぐに分かった。ウソじゃなかった。彼と過ごした日々は、私の中で本当の出来事だったのだ。
「ヘンラー様!」私は、一児の母である私は、その瞬間だけ全てを投げ捨て、ただ乙女のように彼の名前を呼んだ。