儀式
「儀式……みたいなものです。僕は酒によって身を清める事で、いつでも死ねる準備を整えていたんです」
「儀式?」
ララが不思議そうに首を傾げる。その小鳥のような愛らしい動きが言葉の続きを促すものだから、僕はほんの少し瞑目して言葉の続きを探した。閉じたまぶたの裏には様々な模様が浮かんでは消えていた。
「僕は生まれつき左目が真紅で、それを理由に様々な人から、蔑まれて生きてきました。積み重なる汚泥のような罵倒と暴力を受け続けて、いつしか僕は周りではなく僕を憎むようになりました」
一口酒を飲み込み、熱い息を吐き捨てた。
「分かっているんです。これくらいの境遇なんて跳ね除けないと。それでも、積み重なった汚物に侵食された僕の肥溜めのような心は、もう取り返しのつかないくらいぐずぐずに腐り落ちてしまってたんです――」
ララとの間に沈黙が落ちてきた。僕は頭を抱えながら酒気を帯びた息と共に言葉を吐き捨てる。その一言一言がなんだか僕をとても弱くしていくが、それでも一度剥がれ落ちた言葉たちは、とめどなく流れ続けていった。言った。
「――幼少期のトラウマのようなものです。頭で理解していても、心が理解しない。毎日が引きちぎられるような痛みとの戦いでした。理と知のベクトルが真逆を向いていると、お互いが引っ張り合うんです。引っ張り合い限界にまで達した精神はどうなるか分かりますか? 伸びきったままなんです。決して千切れない。僕は僕と理性を保つたまま、自分が何をしているのかも俯瞰したまま、狂ったフリをするんで――」
ララが僕の顔に手を添えて、彼女と正面に向き合う位置へ動かした。その上目がちな瞳に吸い込まれるように、僕は息を呑んだ。
頬に鋭い痛みが走った。視界が一瞬白んで元に戻った。ララが優しい表情を怒りに変え、眉を釣り上げて僕を睨んでいた。その目には涙。興奮し、肩で息をしている。
冷たい風に当てられて僕の頬に熱が灯った。
「な、何を……!?」
「……謝りません。私凄く頭にきました」ララがそう言って、叩いた手のひらをさすっていた。
今、彼女も僕と同じ痛みを味わっているのだろう。いや、もしかすると今だけでなく、今までも彼女は似たような境遇を生きていたのではないか。そう頭をよぎった。王国がわざわざ探して連れて帰ろうとするある人なのだから。
ただ、僕は……
ララは大きく息をしながら、続いて喋り出す。強く吐き捨てるような口調だった。
「ヘンラー様はお弱いです。雑魚です。悲劇ぶりたいのならどうぞ、心の中だけで行ってください! そんな分からない持論をだらだらと並べられても、私は共感いたしませんし、寒いし気持ち悪いだけです! 死ぬために体を清めている? そんなの嘘に決まってます」
「嘘なわけ」
「嘘です! じゃあなぜ死なないのですか!? ヘンラー様が村に運ばれた時、剣をお持ちでした。その剣で喉でも心臓でも眉間でも頭でも腸でもどこでも突き刺して抉り出せばいいじゃないですか! なぜそうしなかったのです!?」
「それは、僕に勇気が無いから……」
「勇気の有無で何とか出来るようなものならば、それこそ本当に大したこと無いです! 結局、死にたい死にたい言ってるわりに貴方の心持ち一つじゃないですか。ヘンラー様は本当は、心のどこかで安住の地を探していたんじゃないですか? ヘンラー様のご覧になった世界というのは、自分の周りの事だけではないのですか? そんな小さな世界で全てを見知ったような言葉で、顔で、態度で諦めてしまわないで下さい。まだ、世界には見たこともない美しいものや、生きる意味を見つける事が出来るかもしれません。気取ってもうどうしようもないだなんて、本当に馬鹿なんじゃないですか……」
涙ぐみながら投げつけられたララの言葉に、何も返せなかったのは、先ほどのビンタで口の中を切ったからだ。口元から血を流すほど僕は傷口を噛んだ。痛みがこの無力感を忘れさせてはくれないかと、微かな期待を込めて。
しかし、血では無力感は流れやしない。ただ痛いだけであった。
ララが僕の血に気付き、息を呑む。おずおずと手を差し伸べながら「ヘンラー様……すみません」と言ったが、僕は反射的にその手を払い除けた。
その時の彼女の表情を見ることは無かったが、切なげな吐息だけが零れた。
「……アドラスシア王都へ帰ります。数日間ありがとうございました」
そう言って僕は家に帰らず、逃げるように立ち去った。去り際ララの泣き声が聞こえて、それは静かな村のどこにいても聞こえていた。