母と子
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僕の鼻腔を煮出した野菜の匂いがムズ痒く撫でる。肉を切りながら、甘みが出るまでじっくりと待っている。沸騰しているお湯の中で野菜が踊り、味の角が取れマイルドになっていく。それを待っている間は滑らかに波打つような、僕の髪のような時の流れだ。
結局僕は生きている。生きて、ここに居る。くたびれた木造の一軒家に腰を据えて数日。閑寂な農村の一人の農民として、僕は新しい生活を始めていた。
アドラスシア王国軍の一兵卒だった頃、死に場所をずっと探して各地を放った矢のように飛び回っていのだが、ある人物を捜索し、城へ連れていく任務で失敗し、瀕死の重症を負ってしまい気付けばこの村に保護されていた。
目覚めた時に一番に感じた事といえば、トタトタうるさい足音だな。という事だ。軽く小刻みに走るその音が耳障りなようで、耳馴染みよく染み込んだ。そうだ、今ここの小屋に向かっているこの音だ。
音の主は元気よく扉を開けて「へんあーただいまぁっ!」と言った。今年五歳になる女の子だ。
「おかえり――」僕は声の主を見た。青い清流のような髪の毛に、木の実のような大きな同じく青い瞳。走って桃色に上気したゴム毬のような頬。屈託のない笑顔を僕に向けてきた。そして、何よりも特徴的で抜群のチャームポイントである所の猫耳が、小刻みに向きを変えている。
他人の、しかも人に興味がない僕ですら可愛らしいと素直に思う。名前を「――ユユちゃん」という。
ユユは大きく頷いて、泥だらけの服を脱ぎ捨てながら家の奥へ行く。
「もう、ユユったら」と言って僕の後ろに座っていた女性が、泥だらけの服を拾いながらユユを追いかけていく。夕映えに靡く稲穂のように豊かな金髪で、ユユと同じく濃い青色の瞳をした女性だ。猫耳は無く、普通の耳をしているが白くつるりとした形の良い耳であった。
「ヘンラー様。娘に水浴びをさせてきますので、お料理お願いいたします」そうなだらかで優しい声を僕の耳に届けた。
「ララさん。分かりました、ごゆっくりどうぞ」
ララと言う、一児の母とは思えぬ若くて美しい女性であった。そして、僕達が探していたある人物。その人である。
僕は台所の窓越しに反射したララを目で追っていた。まるでこの家を飛び出していくように見えたから、思わず手を差し出した。しかしそれは気のせいで、ただ部屋の奥に行っただけにすぎない。それを一通り目で追いかけて消えたあとには、取り残されたように僕の顔だけが映っていた。眼帯と、まゆの上から顎まで伸びた一本の切り傷で壊滅的な左顔面に反して、反吐が出るくらいに女顔な右側があった。
家の奥で水の弾ける音と楽しそうに騒ぐユユの嬌声が聞こえる。
僕はその声を聞きながら、料理の味付けを開始した。ここからが重要だ。そう。ここからが――