顛末
*
頬に滴が落ちた。雨が振っているのか。
暖かい雨だ。巨人に触れた瞬間に意識は消失し、輪郭のない闇が覆い尽くしていた。
「ヨハン……」
名前を呼ばれた。この声を知っている。よく聞く声だ。最近いつも隣にいたやつの。
瞳を開けると、金の髪を揺らせた少女がいた。覗き込む彼女の柔らかい絹糸のような髪が鼻先をくすぐる。眩しいほどに輝く太陽のような瞳も、滑らかな白い肌も、甘い香りも全て知っている。
彼女は桃色のスムースガウンに身を包み、額に包帯を巻いていた。
多分、ヨハンと同じく入院して今に至るであろう。
「マハ……」
「おはよ」
「ああ、あれからどうなった?」
晴れ間がさした、窓から見える軒下の雨垂れのように、ぽつりぽつりとマハは語り出した。
*
私はただ貴方の元へ走った。汗に濡れて束になった前髪が瞼をちくちくと指した。
息が切れようとも、脚がもつれようとも、だって私は貴方のパートナーですから。
階段を駆け下り、扉を抜けて、そこに広がる光景は直視に耐えないものだった。その時私は、その……嘔吐してしまった。吐くものも無いのに、ただぬるりとした唾液なのか体液なのか分からないものがほんの少しだけ出た。
涙と鼻水を拭って、出来るだけ友達の顔を見ないように前だけを向いて走った。
どこに向かうのかは分かっていたの。この胸に巣食う蛇の半身が何となく教えてくれてたから。
ヨハンが死んでしまえば、私の命はその時点で終わる。お腹を空かせた蛇が私を食べに戻ってくるから。ホントに、それだけの理由。だと思うし、実際それが頭の中を先行していた。
死んじゃったら貴方と過ごした時間が無駄になるじゃない? それに、目的のためには今死んだらダメだから。
だから私は走った。途中躓いて擦りむいたりしたけど、何に躓いたのかは見ないようにしてた。
見てしまったらなんだか、私の中の塞き止めていたものが簡単に決壊してしまうような気がしたから。
赤黒くて気味の悪い空気が肌を湿らせて、吸う息は冷たく、心臓が頼りなく痛みを訴えかけていたけど、草木をかき分け、枝に腕を切られ靴に土砂が混じり気持ち悪くなっても、私は決して足を止めなかった。
貴方の思いは、この細くて歪な――他の人が聞いたら正気を疑われるような――繋がりを通して何となく伝わっていたから、出来るだけ急いだ。
ただ少しでも早く、少しだけ前へって。
そんな時、私の前に炎の壁が出現したの。後になって聞いたら、ディアナ様がこれ以上誰も近付けないために放った防壁だったらしいんだけれど、その時の私にはただの悪意の塊にしか見えなかった。
何で私の道を拒むの? 何で私の願いを握り潰すのって。
火は瞬く間に広がっていった。肌を突き刺すような灼熱に一瞬だけ足を止めてしまった。燃え落ちた枝が私の前に倒れ、それを避けるので精一杯だった。
早く貴方を助けないといけないのに、それがもどかしくて私は本を開いて魔法陣を殴り書きした。
乱雑で適当なものだったけど、私の周りに少しだけ防護壁を貼って炎から身を守って貰うように。
多分、何もなく突撃していたら一瞬うちに灰に変えられてしまっていただろうから……それくらいディアナ様の放った炎は凄まじく、眩くて熱いものだった。
私は腕で顔を守りながら、炎の中を突っ切った。
流石に無傷というわけにはいかず、肺を焼くような痛みで呼吸は出来なくなり、走ることもままならない。真っ直ぐ進んでいるのかも全く分からなくなってしまっていた。
辛うじて、壁を抜けた頃には私も憔悴してしまっていて、その場にしばらく膝をついてしまった。
その時、貴方を見たの。まだ、辛うじて生き残っていた人を抱えながら走っていた貴方を。でも、貴方はその人ごと巨人からの攻撃を浴びて、瞬間事切れた。事切れたのが分かったのは、糸の切れたあやつり人形のように力なくその場に崩れ落ちたから。
私はそれを見て、再び走った。このままでは、私の元に蛇が戻り食い尽くされてしまう。
貴方は痛みを伴わない易い眠りに付いてしまうだけなんだけど。それは、多分貴方にとっても本意ではないし、正直あなたが甘んじるべき終焉ではないと思ったから。
死してなお、後悔が残るなんてそんな馬鹿げた話は嫌でしょう? 私は貴方の事をパートナーだと思ってはいるけれど、それは今のように相容れない仲であるからだと思っているから。貴方は決して楽に死んではいけない。定められた天命を無理やりねじ曲げるって言うのは、それだけで大罪だし、同じく享受した私も楽に死んではいけない。
だからって言うのも、変な話なのだろうけれど私は貴方の元へ駆け寄った。
走る途中。視界の端から、ディアナ様が空から巨人に迫るのが見えた。
そして、彼女は巨人に触れた。それは宣戦の角笛でもなく、まして憎き仇を殺そうとする憎悪すら感じられなかった。
ただ、あるがままに当然のように、友人の家を訪れるかのような気安さで、巨人に触れたの。