唯一の手段
*
「なあオルランド」
ディアナからすればそれこそ何百年ぶりといった体験であったように思う。この身を生きる神として崇め奉られている彼女には、崇拝の眼差しを向かられはするものの、あんな切ない眼差しで睨まれる事などなかった。あんな、瑞々しい感情を。
「はい?」
それこそ彼女がまだ人間だった時ですらあまり記憶にないと思う。言葉には出来ない憤りとか、焦りとか、そういったものがたまらなく、
「眩しいよ」
ディアナはソファーに深く腰掛けて、テーブルに置いた水晶を見た。そこにはマハが廊下を駆けていく姿が映し出されていた。歯を食いしばり、金の髪を振り乱しながら、ひたすらに走っている。
「そうですな」と、オルランドが静かに背後に立った。
二人は少女の行く末を見ていた。
ボロボロの制服で、傷が塞がったとはいえ完治ではない。時々脚がもつれ、転倒しそうになる。治癒や補助魔法においては素晴らしい成績を誇るが、それ以外の科目において彼女はからっきしなのだ。
そんな人間がたった一人で死地に赴くなど、
「馬鹿野郎だ」誰が彼女を護るのか。
水晶にはヨハンも映っていた。歯を食いしばり死線を切り抜け、活路を見出そうとするその目が、死んでない表情が全てが「ほんと、馬鹿野郎だよ」
「些細な事で笑い、泣き、怒り、でもその感情を必死で隠そうとする。巧妙に隠しすぎて自分ですら気付かない。私はついぞやその答えを自分では見つけられなかったよ」
言葉にすれば簡単なのだが、それは果たして理解したと言う事なのか。
ディアナは絶対領域の守護石より生まれいずる巨人を見た。
それは赤子のようにか細い声で泣き、人影の命を喰らった。元々、あの存在に命があったのかは不明だが、それでも人影達はそれが当たり前のようにその身を巨大な王に捧げていった。
眼下の人々は恐慌し退散する者、やけとなり突撃するもの様々な様相を呈していた。ただこれらを一言で表すならば阿鼻叫喚と言ったところであろう。
突撃した人は巨人の身に触れた瞬間、糸が切れた人形のように事切れ、逃げ惑う者もその半固形の巨人から飛び散る体液を浴びて絶命する。
*
「なんと……」オルランドは驚嘆に目を見開く。
その不条理な現象を目の当たりにし、命あるものは全てが絶望していた。
皆が疲弊していた。もう、生きる事を諦めてしまいたくなる。
重く貼り付くような赤黒い空と、無意味な突撃により散ってゆく命と、ただそこにいるだけで死を撒き散らす暴虐の塊。この存在が一歩進む度に一人二人以上の命が失われる。
あまりにも軽い。命が軽すぎる。
ある者は仲間を庇い、ある者は仲間を盾に、裸になった人の本質がここから水晶を通して否応なしに映し出されていた。
触れれば無条件に命を吸い取る存在を前にして人が対抗する術はない。数十、数百年による研鑽が、英智が全て無駄。
「無限の死が……飽くなき地獄の蓋が……」
この初老の男は凄惨なる光景に跪き、頭を垂らした。その姿は処刑を時を待つ囚人のようですらあった。
一体何が起きたのか。うわ言のように呟く。
ディアナが、オルランドの肩を叩いた。
「なあ、オルランドよ。そこの娘達を連れて逃げろ」
「ディアナ様……?」
*
顔を挙げた彼は、瑞々しさが失われ本当の意味で老人のような人相になっていた。理屈ではなく、感情がここまで身体の変化を促すものなのかと、ディアナはそれを齢約千歳にしてようやく学んだ気がした。
「あー、そうだな。私の国にでも避難しちまえ。あそこなら、お前の顔も多少は効くだろうよ」
「貴方様も……」なにかを言いかけてオルランドの表情が固まった。
恐らく彼は唐突に理解したのだろう。あの無限の死に対抗する唯一の手段を。