羨ましい
「でも魔力が」クロシェは頬に涙の筋を一本残したまま首をかしげた。
「魔力がないなら補うしかないだろ」
表情は岩戸に鎖されたようである。多分熱い吐息を漏らした時も、手に一粒の涙をこぼした時も、顔は見えなかったが、表情は今のまま崩れるてはいなかったのだろう。
泣くことに慣れていないから、押し止める方法と意味を知らない。それくらい真っ直ぐに流れた涙の筋だった。
それゆえに、ヨハンはこれ以上に純粋な涙を知らない。
クロシェの過去に何があったのかは知らない。
聞き出す気も無いし、どのような体験をすれば、人は過去の贖罪をわざわざ買ってでるのかも分からない。
ただ似ているだけの自分に。身を投げ出してまでこの死地に留まるなど……行き過ぎた献身は、時に聖人君子の施しではなく、悪魔の呪いになるのだと知った。
しかし、ヨハンは彼女の思いに答えないといけない。
一人クリスタルに縛られ悠久の時間を過ごした彼女が、いくら極刑として自分を罰せられる事を願おうと、許されるための時間はもう充分に過ごしたのではないか。
そう彼女の涙の後を拭ってしまう程度には思えた。
ヨハンは左手に絡む蛇と、その先に繋がっているであろう空間の穴の向こう側へ声をかけた。
「魔力使わせてもらうからな、マハ」
マハはこの向こうにいるのだろうか。そういえば、彼女もクロシェの事を気にかけていた。それは、学園の地下に転送させられた時からだったように思う。
彼女ら超がつくほどお人好しだ。
ヨハンが学園に来る前の時も――そう。ため息が出るほどに。
「多分、これで死ぬ事になってもアイツは笑って許すんだろうな……」
クロシェは、つまらない演劇に置いていかれる観客のような視線でこちらを見上げていた。
「まあ、そんな事させねえけど」
ヨハンは湖の方角へ右手をかざした。
(――確かにあの日あの時、命で一つに繋がったから、私たち――)
そう言っていた彼女の言葉を思い出した。
「ホントに納得いかねえな、この蛇ヤローで繋がってるなんて。まあ、それに縋る俺も気に食わねえけど」
「ヨハン?」
「クロシェ、転送陣いつでも起動できるようにしとけよ」
そう言った瞬間、湖の方角から薄緑色をした光の帯がヨハンの右手に集まってきた。風の流れを可視化したような緩やかな曲線を描くそれは丸い球体に姿を変えていく。
「これは?」クロシェがたずねる。
「マハが残した魔法陣の魔力」
「あなたのものと色が違う」
「けど、俺は使える。この呪いでアイツと繋がってるから」
「よく分からない理論――」
ヨハンは集まった魔力を、転送陣の真ん中に乗せた。転送陣が強く光り輝く。空が割れて欠片が砂浜に刺さった。
「――けど……」
クロシェが小さく呟きながら、ヨハンの手を引いて、転送陣の上に立った。
強い光が二人を包む。視界が白一色に塗りつぶされていく。思わず目を庇う。
転送の間際。ほのかな温もりが、安心感を誘う。
それは微かな空気の変化ではあったが「少しうらやましい……」と言ったクロシェの声よりは確実に感じとる事が出来た。