崩壊直前
曰くここは、眼球のためにクロシェが作った間もなく消滅する世界だと。
彼女の真偽は、地の底から足に伝わる振動と、硝子のようにひび割れている星空を見れば分かる。
ヨハンの肉体は修復されたが、身体の内から訴えかける疲労感までは回復しきれなかったようだ。脹脛が、二の腕が、熱と重い痛みを感じさせる。
眼球を喰らった黒蛇は少しだけ落ち着いたようで、キリキリと締め上げることは無かった。
「は? じゃあどうすんの?」ヨハンは焦りから語気荒くクロシェに問いただした。
クロシェは、魔法陣に手のひらを当てて言った。
「今の転送陣は、燃料切れで点かなくなったオイルランプみたいなもの。点火出来るだけの燃料――魔力――を補充してしまえばいい」
「魔力の補充……って」ヨハンは内なる魔力を指先に集めた。薄紫色の光が微かに、それこそ消え掛けのオイルランプの火程度のものが灯った。
「これで全力なんだけど、足りる?」
クロシェが起伏のない表情でこちらを見た。
「遊んでる時間はない。もう崩壊が始まってる」
遠くの空は剥がれ落ち、水平線の彼方は光の粒子となって消えていく。
「巻き込まれたらどうなる?」
「一緒に消えてしまう」
崩壊の進行は早く、みるみるうちに浜辺へ迫ってきている。消えた後の空間は真っ黒い闇が拡がり、どこまでも続く無がそこにあった。
浅瀬が騒がしくなる。飛沫をあげながら魚の群れが岸に上がってくる。回空魚が崩壊から逃げてきているのだ。
「クロシェの魔力だけじゃ足りないのか?」
「この身体の元の魔力が少ないのと、先の戦いで使い過ぎた。全部絞り出してもあと半分はどこからか供給する必要がある」
「つっても、今のままじゃ……」
ヨハンの中で一つだけ手はある。蛇に食べさせている魔力を一時的に絶って、転送用に使う。その代わりマハがどうなるかは分からない。蛇が具現化している以上、確実にその弊害は彼女に行くことだろう。
焼け落ちていく紙のように、じりじりと消えていゆく世界。彼女はなんと言った。本当の危機なら全力で戦えと言った。
それは、一を捨てて十を取れという意味だろう。
「ディア……」クロシェが静かに言った。
「長い眠りの中で私は、夢を見ていた」
ヨハンの手を彼女が握った。彼女は今目の前にいる自分ではなく、遠い思い出の中のクロシェ自身に話しかけている。
「見る夢はいつも私と、あなたと、フレデリカの夢。短くも価値のある三人で共に過ごした日常の記憶。まだ世界があなたを魔王と呼ぶ前、フレデリカが初代神王として統べる前。海辺の屋台でご飯を食べ、ラボで笑いあいながら研究や誕生日のお祝いをしていた頃。確かに繋がっていた時の私達の――私の優しい思い出」
クロシェの手に力がこもった。彼女は握った手を胸元に運んだ。ヨハンの手には熱く湿った吐息と、冷たい雫が一粒。
「また、私の前に現れてくれてありがとう」
誰かと繋がっていた時の思いと、その言葉の節々から感じられる後悔の思いが流れ込んでくるようであった。ヨハンは何も言えずただクロシェの言葉に耳を傾けている。
その時、一つの天啓にも似た閃きが脳裡を過ぎった。
「クロシェ、諦めるのはまだ早い」
えっ。と、こちらを見上げたクロシェに頷いた。
「転送陣を起動させる」