悪食の蛇
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クロシェが放った剣の雨は戦況を打破する決定打とはなり得なかった。
全身を刺し貫かれた痛みというのは、恐怖も絶望もかなぐり捨てて、ひたすらに諦めであった。己の感情をいくら捲っても白紙の紙が続いていく。ある意味センセーショナルな体験であった。いざ死にゆく者に特別な感情は無い。
特別な感情に浸るのは死を憂う時と、遺された者だけなのだと。
クロシェの動かない表情が僅かに変化を見せた。
そう。どこかで彼女を冷静に観察する事が出来るほどの余裕があったのだ。
海の音も夜に溶け、やがて心地よさすら感じ始めた。
その時、ヨハンの心臓が大きく脈打った。これが最後の鼓動だと言わんばかりに。消えゆく灯火が見せる最後の煌めきのように。
鼓動の後、腹の底からふつふつと湧き上がる溶岩のような何か。身体を縛る黒蛇は荒れた大綱のように肌を削る。締め付けられて血が滲む。貫かれた場所からも血が滲む。口からも血が溢れる。
自分とはどこか違う所で、何かの意志が働いている。先ほども感じていた飢餓感が、腹を刺激する。ふと左手を見た。絡みつく黒蛇が舌を忙しなく動かしている。
この蛇が訴えていることが分かる。
「ああ……そうか」ヨハンは、目の前の眼球と大量の人影を、薄らぐ意識の中愛しむように見つめた。
求め掴もうと左手を眼球へと伸ばす。クロシェが名前を呼んでいた。耳の端で聞こえた。しかし無視した。無視したというより零れたのだ。手で水をすくい上げた時のように、隙間から。
「俺が魔力を与えて『黒蛇』がマハを喰わないようにしているのと同じで……」
蛇の束縛は強く、身体は分断されてしまいそうであった。
眼球の手が追加でヨハンを指し貫く。ふと視界が半分消えた。片目を貫かれたのかと思う。
「マハが近くにいることで俺も……」
オーガズムの前兆にも似た肉体の緊張が包む。ただ、快楽では無く不快だ。ヘドロのような欲望が全身から噴き出しそうになる。
無理やり乾いた笑いを絞り出した。
「なんか、もう……色々と終わってんな、俺ら……」
そのまま弾け飛ぶ衝動の奔流に身を任せた。
左手から伸びる『黒蛇』の頭が幾つにも分かれて、周囲に迸った。
『黒蛇』の神獣が『眼球』の神獣を喰らう。頭が肥大化し、眼球を丸呑み出来る大きさにまで顎を大きく開けた。
枝分かれした頭部も人影を喰らうための大きさに顎を開けた。木々をなぎ倒し、大気を揺らしながら黒蛇は暴虐の限りを尽くしていく。
『眼球』が腕を『黒蛇』の喉元に何本も突き立てるが、黒蛇は止まらない。ただその食欲が赴くままにかぶりついた。
黒蛇の頭から、手が生える。中から眼球が抵抗している。しかし、少しずつ嚥下していく度に、蛇の口の中から飛び出した手はゆっくりと食道から胃へと引きずり込まれていく。
マハの命を喰らい、ヨハンの魔力を喰らい、人影を喰らい、同じく異形の神獣を喰らう。悪食の蛇が何かを飲み込む度にヨハンの熱く滾る欲望は鎮静化されてゆく。
破損した身体は修復されてゆき、昂りは深奥の闇へと溶けていく。
終わってしまえば呆気ないものであった。未だに流されるまま、ことの成り行きを思い返すことしか出来ない。
弱者は強者に喰われた。それだけだ。
気付けば、赤い空と海は濃紺の色に戻り、先ほどとは嘘のような静けさが辺り一帯を包み込んでいた。
「ヨハン……」
クロシェがこちらを見ていた。マリアの身体を一時的に乗っ取っている彼女は、ヨハンの言葉をたた無表情に待っていた。
それに対してヨハンは、転送陣の元まで歩いていき「帰らないとな」と、クロシェの方を見た。
クロシェがゆっくりとかぶりを振った。そして、転送陣に手を置いて、 小波を数度聞き流した後言った。
「転送陣の魔力が切れて起動しない。帰ることは不可能」