希望が絶望に変わる時
*
学園に戻ってきたフェイドア達を待っていたのは、異常事態についての報告義務でもなく、緩いとさえ思えてしまう学園生活の安穏さでもなく、ただただ更なる地獄絵図であった。
赤黒い空が拡がり、黒い人影がそこら辺を跋扈している。
逃げ惑う生徒達。迎撃を試み魔法で撃退する者もいるが、隙をついて背後から、人型の手で切りつけられた。
討伐された影は黒い霧となって消えてしまうため、そこら辺に転がっている者達は全てが同級生、先輩、後輩、教職員、警備のために雇われた冒険者たちだ。胴体を裂かれている姿は見まごう事なき死体。
「ふざけんなっての……なんでここにも」フェイドアが呟く。
迎撃のため、手に魔力を込めた。
ユユは隣で口元を抑えて崩れこみ、嗚咽に苦しんでいる。
シグレは先ほどの件で意識を失ったままキースに抱えられている。
だが何よりも、フェイドアの胸元で眠っていたマハが突然血を吐き出してむせ返る。生ぬるい血が頬にかかる。
「あ、がっ……!」
彼女の口から半透明な黒蛇の胴体のようなものが這い出して、マハの全身をキリキリと締め上げていた。
蛇の胴体が口から少しずつ這い出す度にマハは吐血し、苦しげに声を漏らす。彼女の細い指先や足先は痙攣し、所々で皮膚が裂けで血とも膿とも区別のつかないものが滝のように流れ出していた。
「……なんだよ、これ?」
虚空に穴が空いており、そこに頭を突っ込んでいるかのように蛇の胴体は空中で途切れていて、先が見えない。
やがてマハの体は蛇の胴体に持ち上げられて、空中に浮かび上がる。
ユユもその光景に元来の可憐な顔を大きく歪めた。悍ましい何かを軽蔑するような、そんな表情で「や……これは、黒い……蛇……っ!? マハ……ヨハン……あなた達は一体。あの短期間の失踪で何があったんですか?」マハを見つめていた。
それは単純な物事への恐怖や憎悪では無い。もっと深い禍根や業に近しいものであると、フェイドアは感じ取っていた。
阿鼻叫喚は、全てが狂いだす始まりの鐘のように響き渡っていた。
*
潮騒が聞こえる。赤い空と海に鮮血が舞う。
ただの雑魚に肩を貫かれた。ヨハンは苦悶に顔を歪めながらも、その真紅の瞳は瑞々しく輝いて見えた。ヨハンは、がむしゃらに突き刺さった腕を鷲掴みにし、力を込める。
「ああぁぁぁぁ――!!」一息に引き抜いてそのまま、人影を地面に叩きつける。顔面を思い切り踏み潰した。
煤のように黒い霧が飛び散り、人影は霧散した。意味もなく何もなくなった足元を躙った。
途方もないほどの高揚感に満ちていた。
「クロシェェェエエエ!」
ヨハンがそう叫ぶと、大立ち回りを繰り広げる彼女の方から剣が飛んでくる。
ヨハンはそれを乱暴に掴みとり、その勢いのまま雑魚を切り裂く。汗で制服が貼り付いて気持ち悪い。呼気は熱く、瞳に汗が染みる。
ヨハンは跳躍して、群がる雑魚の顔面を踏み台にして前進する。目指すは『眼球』。剣を投擲した。その度に追加の剣がクロシェの方から飛んでくる。
原理は分からないが、異次元空間から武器を引きずり出す事の出来る能力のようだ。
補充の剣を掴みとり、空中で回転。勢いを乗せて眼球へと肉薄する。大きな一つ目と視線が交わり、ヨハンは凶暴な笑みを浮かべてみせた。
「消えろよ」
体重と腕力と剣の重みと加速と全てを乗せた斬撃は、眼球の前に展開されている見えない鋼のような防護壁によって弾かれ、刃は砕け散った。
「足りねえ……!」
まるでクロシェは心を読むかのように、ヨハンの呟きに呼応して追加で二本の剣を飛ばしてきた。
ヨハンは先ほどの所作で二連撃を叩き込む。剣は破損。
「全然足りねぇ……!」
次は肉厚の大剣が二本飛来。掴む。叩き込む。破損する。
しかし、若干の手応えはあった。防護壁に若干の亀裂が走り、眼球がわずかに後退した。
戦況は少しずつ動いてゆく。
「ヨハン、次は私が……」
後退する眼球に第二陣を叩き込むのはクロシェであった。彼女は槍を手に持ち高く飛び上がった後、全体重を乗せて急降下してきた。
穂先による一点突破の追撃が、亀裂の真ん中へと突き刺さり防護壁を遂に破壊した。
クロシェが横目でこちらを見たあと、上空を視線で指した。
そこには大剣が二本落ちてきている最中であった。
ヨハンはそれを受け取りに、脚を屈めて跳躍する。
するつもりであった。が、飛び上がることが出来なかった。左腕が空間に縫い付けられたように動かなかったからだ。そのまま大きな虚脱感に襲われる。
「ヨハン……!」クロシェがヨハンと眼球の間に立ちふさがる。
「最……悪……」そのまま、ガクッと膝をつく。
それは飢餓感にも似た症状であった。腹は重たく、締め付けるように痛みを訴え、指先の感覚が僅かに消失している。
それ加えて、焼けた鎖で全身を縛られたような感覚を覚えた。
見ると左腕から全身に掛けて半透明の黒い蛇が巻きついていた。鎌首を上げてこちらを見ている。
尾の部分が見えない。空中から生え出してきているようである。
受け取るつもりであった大剣二本は鈍い音を立てて、砂浜に突き立てられた。
「蛇……そっか。マハと離れたから……」
動けない体を残して戦況は少しずつ動いてゆく。
まず、眼球の防護壁を破ってしまった事自体が悪手であった。いや、想定外の出来事に見舞われたため、結果として悪手になってしまっていた。
「こんな時にふざけんなっての」
仕切りを持たなくなった眼球は、手を伸ばして攻撃することが出来る。前方に無数の手が、後方には人形が迫っていた。
クロシェが大剣を何本も砂浜に突き立ててバリケードを作る。
「ヨハン、私にはこれしか出来ないけど……」
そう言って、クロシェが瞑目した。黒い髪は揺れ、大気は震え、赤い空に無数の波紋が拡がった。
「護るから……!」
そう言って彼女は聞き取れない言語で一言呟いた。
すると、波紋からは剣が何本も飛び出し、冷たい鉄の雨となり地面に向かって降り注いだ。