背水の陣
時間がゆっくりと流れていく。背後から皆が追い抜いていく。ヨハンは足元を見た。黒い無機質な手が足首を掴んでいた。
「そ、んな……」
背後からは無数の人影が迫る。
マハが転がっていく。
キースが転送陣を起動させた。
ヨハンは黒い手を切りつけて、拘束から逃れる。剣を捨ててマハに駆け寄り抱きかかえる。
「くそ、マハのボケぇぇ!」意識のない彼女に悪態をつき、先ほど考えていた事を実行しない自分に驚く余裕もない。
砂浜を突き破り手が次々と飛び出してくる。この大きさは人影の手ではない。『眼球』の手だ。
神獣と呼ばれるものは、さすがにあの一撃で倒せなかったようだ。
「ヨハン! 早く!」フェイドアが叫ぶ。
限界まで脚を回しているヨハンの背後にぬるりとした気配が絡みつく。ヨハンは瞳孔が一気に萎むのを感じた。
振り向いてはいけない。それは分かっていたのだが、思わず確認せずにいられなかった。
すぐ背後に一つ目の肉塊がいた。それはこちらをただ見つめていた。目は口ほどに物を言うが、この目にいたっては何を考えているのか全くもって分からない。
ただ、退屈な生物図鑑を隅から隅まで黙読するように、この場の全員を睨め付けていた。
ヨハンはマハを投げた。
「フェイドア! お前が受け取れぇ!」
「任せろ!」
魔法に変わる武器として鍛え上げた膂力はマハの軽い身体を柔らかな放物線を描くように投げることが出来た。
転送陣が起動して、転送を行うのとマハがフェイドアの腕に収まるのはほぼ同時であった。フェイドアはさすがに受けきれなかったのか、大きく後ろへ倒れ込みながら、虚空へ消えていった。
「頼んだぞ……」
ヨハンは消えたのを確認すると反転、眼球へと向き直った。
「さて、バケモンめ」
頭蓋の内を鈍い痛みが打ち付ける。頭を抱えながらも、よく響くがなり声で意思無き者達へ啖呵を切った。
「やれるもんならやってみろよ!!」
隣から差し出された剣を掴み取り、構えた。
「ん?」
構えて、次に疑問が浮かんだ。疑問が唐突すぎて轟々と燃える火をふっと一息の内に鎮められたような感覚である。
なぜ、剣が差し出されたのか。まじまじと剣を見た。質素な作りであるが、なまくらでは無いという事をその刃から放たれる濡れたような光沢が物語っていた。
「え?」どういう事? と思い、ヨハンは差し出された方向を見た。
そこには黒髪を後ろで束ねた、スーツの女性が立っていた。今は学園教諭マリアの姿をしている、地下で眠っていた少女クロシェである。
「ヨハ……」クロシェは名を呼びかけてかぶりを振った。そして言い直した。
「いいえ、ディア……もうあなたを独りにはしないから」
起伏の少ない言葉の流れであったが、彼女なりの明確な意思はそこにあった。正直、ディアと言う人物とクロシェの間に何があったのかは分からない。しかし、その強い決意を無下にするほど落ちぶれてはいないつもりである。強く頷いてみせた。
「……ありがと、許してくれて」
クロシェは静かにそう言って、自らも剣を取り出して二刀流の構えをとった。その表情を見る事はなかったが、多分無表情から変わる事はないのであろう。
内でめくりめく感情を決して表には出さない。そういう人物なのだろう。
ここにいない者は、ここにいない者のために残り、立ち上がった。
しかし敵は、未だ百鬼夜行のごとし。