彼女の作った世界
心臓が一瞬だけ鼓動を止めた気がした。
「ディアって、それは……」クロシェがヨハンを見た時に呼んでいた名である。
誰も、ヨハン本人ですらこのディアという名に何の意味があるのか分かっていないのだ。
産まれて物心ついてから、偽名でもディアなどと言う名を使った事はない。
「マリア先生?」とヨハンは確認するように名前を呼んだ。
マリアはしばらく瞑目をした後、ゆっくりとかぶりを振った。
「……クロシェ」マリアは自分の名をそう呼んだ。
どういう事なのか全くもって意味不明。
なぜ、マリアがクロシェと名乗るのか。
なぜ、クロシェがディアと呼ぶのか。
なぜ、今は学園で眠っているはずのクロシェがここに居るのか。
「この身体の持ち主は眠ってる……私はその隙間に意識を割り込ませているだけ。あなたのおかげで意識を解き放つ事が出来た」
そして。
なぜ、空間が真っ二つに裂けて、生皮を剥ぐようにずれ落ちたのか。
なぜ、そこに現れた外の景色が赤黒い空なのか。
まるでこの世の終わりではないか。
気付けば裏の世界へ迷い込む前の湖の辺に立っていた。しかし、静かな夜の空は一変。
赤黒い空に、遠くで聞こえる爆発音。騒ぎ立てる獣たちの遠吠え。激しく荒れる木々。
ヨハンは状況が呑み込めないでいた。
「ディア……ここは、夜の海で間違いない?」
マリア――いや、クロシェがマハの手から離れて立ち上がり訊ねてきた。
先ほどの朦朧とした表情から少し身が入ったように見える。しかしまだどこか、ふわりとどこか遠くを見ているような瞳であった。
「そう、と、思う。あと、俺の名前ディアじゃなくてヨハンな」
ヨハンはマハを背負って立ち上がった。
「ヨハン」クロシェは意味の無い石の数を数えるような口調で反芻し小さく頷いた。
「そう、分かった。この世界、もうすぐ閉じる。早く逃げないと」
「閉じる?」
その言葉の響きに不穏なものを感じ、ヨハンはたずねた。
「『眼球』がこの世界から解き放たれた。アレの為の世界はもう不必要」
「眼球ってのは、さっきの」月か?
口外にふくまれた質問も読み取り、クロシェはただ無言の首肯を返答とした。
「アレの世界?」
「そう。ここ夜の海は眼球の揺りかご。眼球が眠り、目覚めないように、私が作った世界……」
「お前が、作った……?」