穴穿つ
マハが展開していたバリアが砕け、無数の手が慣性に従い迫り来る。瞬く間に眼前へ進撃する異形の手。ヨハンは死を悟る。マハが瞳を強く閉じて身を縮こめていた。
駆け出そうにも、刹那の出来事に反応する事は出来ない。ヨハンはその真紅の瞳にこれから起こりうる惨劇をただ馬鹿のように映すことしか出来なかった。
しかし、その手がマハにもヨハンにも触れることは無かった。接触の直前吐き気を催すほど、極彩色の粒子となって手は霧散した。
「え?」両者は、ぽかんと同じ顔をし、同じようにお互いを見つめ、肩から脱力し「消えた……?」同じ台詞を零した。
天空には大きく穴の空いた眼球。穴からは鉄錆のような色の液体が流れていた。
穴の奥には底冷えしそうなほどに深い闇が広がっていた。
力の抜けたマハが、息を切らしながら地にへたり込む。
「倒せたの?」マハがこちらを見た。彼女の声と金の瞳は脱力し、冷や汗が横髪を束ねてピンクに色付いた頬に貼り付いていた。
何より、彼女の金色の瞳は力なく今にも気を失いそうなほど弱っていた。
ヨハンはそんな彼女の瞳を見つめ返して首を傾げた。
「……さあ。どうなんだろな」
眼球から垂れ流される汚物のような液体に乗って淡い薄紫色の光る何かが、熟れた果実を叩き潰したような音を立てて落ちた。
二人は思わずそちらを見やる。
そこには人が倒れていた。黒髪を後ろで縛った、黒いスーツの女性である。彼女は赤茶色の粘液に塗れて身動き一つしなかった。
「先生?」マハが呟く。
そして、身を起こして駆け足で近寄っていった。足取りはおぼつかなく、時折足を取られそうになっていた。
いたたまれずヨハンも後を追う。
先日夜の海にて消息を絶った学園教諭マリアであった。
マハが人差し指をマリアの頬に添える。すると遠くにあった魔法陣の光が一つ消えて、彼女の指先に集まった。薄緑色の光はマリアの頬から身体へと溶けていく。
しばらくした後、マリアは突如むせ返った。
「先生!?」マハが声をかける。
マリアは薄く目を開けて、確認するように瞳を左右にゆっくりと動かした。マハを見て、その後ヨハンを見た。
朦朧としているのであろう、スッキリとしない顔で暫くこちらを見ている。と言うより視線を置いているだけと言った感じであった。
「よかった、目……覚めた……」そう言ってマハは、糸が切れたようにその場に倒れた。
「おい、マハ!」
ヨハンはマハを抱えた。彼女は規則的に胸を上下させ、微かな寝息をたてていた。気張っていた緊張が解けたようだ。
マハがマリアを抱きかかえたまま気絶し、ヨハンがマハを抱きかかえると言う珍妙な連結がここに成され、無性に小っ恥ずかしくなってきた。
「えっと。大丈夫か、先生?」無言で見つめ合うのも気まずく、ヨハンはとりあえず当たり障りのない言葉を吐き出す。
マリアは、それを風の音でも聞き流しているように無視をして、代わりに小さく口を開けて紅の瞳と白銀の髪の少年の名前を呼んだ。
「ディア……」と。