神の槍
マハがそう言って、少しはにかんだ笑顔を見せた。
その表情になんとも言えない気持ちになる。触れてしまえばそのまま消えてしまいそうな、初冬の淡雪に似た微笑みであった。
それを見てヨハンは次の言葉を見失った。
その表情はほんの一瞬で、彼女はすぐさま真剣な表情に戻る。
ヨハンは視線を魔導書に落してページを後ろから捲っていく。
よく見ればそれぞれ微妙に違う模様が描かれたマハお手製の魔導書から神の槍の魔法陣を見つけた。
複雑怪奇な数式は散りやすい雷の魔力を極限まで濃縮させるための接続式、飽和状態になった魔力を意図的に暴走へと導くため、一石を投じるように数式の上に無理やり描かれたカオスの刻印。
目が痛くなりそうな図形と数式が、一枚の紙へと落とし込まれていた。黒いインクにはマハが持つ清らかな、色でいえば純白の魔力が濃密に込められており、光の入射角によっては淡く輝いて見えた。
マハの展開しているシールドが窮屈そうな音を立てて一回りほど小さくなっている。
「あった!」
「じゃあ、それを私の口に!」
そう言ってマハは桃色のしっとりとした唇を小さく開けて見せた。
思わずその所作を凝視してしまう。
「おくち?」
何も考えず見ていたので、とんちんかんな返答をしてしまった。
「紙から魔法陣を取り出すのに少量だけど魔力がいるでしょ、手が使えないから早く!」
彼女もあまり余裕が無いのであろう、眉根を寄せて「あ!」と力強く言った。
ヨハンはページを破り、マハの口に運んだ。
彼女は紙を唇で甘噛みし、ほんの少しの間瞳を閉じた。そして「ふっ」と吐息と共に紙を飛ばした。
魔導書の紙は空中を漂いながら、淡い緑色の光で焼かれていく。ちりちりと小さな薄緑色の火の粉を撒き散らしながら、ヨハンの目の前で遂に燃え尽き、代わりに魔導書に記入されていたものと同じ魔法陣がその場に展開された。
「ヨハン、任せたからね。私のありったけの魔力を込めて昨日描いたんだから」
バリアが軋みをあげてひび割れていく。
ヨハンは真紅の瞳でバリアを覆う手のひらの隙間から眼球の位置を確認した。それはその場から動かずにただ強者としてこちらを見下ろしているように見えた。
威風堂々とした大きく複雑な魔法陣はゆっくりと回転し、起動を今か今かと待ち構えている。
ヨハンは人差し指で魔法陣の真ん中に触れる。それを少し動かした。魔法陣はヨハンの指先の動きに併せて動いた。眼球を真正面に捉えれるよう微調整していく。
「マハ、この狙撃で倒せなかったら……」
「ん、ヨハンの全力で倒してね」
手で塞がれた視界の奥に存在する眼球を捉えた。
ほんの僅かでも成功の確率を上げるために、支障が出ない程度に自らの魔力を加えた。
『黒蛇』の食指がマハに向かわないよう、出力できる量は水滴にすら満たない。この程度では指先に静電気を走らせる事も出来ないのだが、コンマでも生き残る確率を上げるための処置だ。
「神――」指先から連なる魔法陣が膨れ上がるような感覚。それは極限にまで水を含ませたゴム毬のようだ。溢れんばかりに膨れ上がっていく。
「――の――」
弾け飛びそうな魔力の奔流をぎりぎりまで留める。指先がうっ血しているかのように痺れてきた。ヨハンは苦悶の表情を浮かべながらも最高最大の威力で射出されるように溜めを作り、殺傷力と鋭さを高めるために射出口を極限まで小さく細くなるよう微調整をする。
バリア全体に亀裂が広がった。
グラスを踏みつけたような嫌な音がなった。
魔法起動のための最後の言葉と、マハの焦燥に煽られた叫び声、バリアが砕け散る硬質で鋭い音は全てが同時に奏でられた。
細く鋭い一条の光線が一瞬、ヨハンと眼球を繋ぐ糸のように閃いた。それからは極光の紫電が闇を払い、無機質でおぞましい手を腕を瞳を空間を槍のごとく貫いた。
余りの反動に思わず尻餅をつく。
先日見た同級生のそれとは威力も精度もまるで違う。魔力の有無によって同じものでもここまでの差が産まれるのかと、ヨハンは改めて思った。