落月
シグレによって切り裂かれた空は、天蓋を引きちぎるがごとく滑り落ちた。その光景は、ずるりと、どこか生き物の皮を剥がすかのような生々しさがあった。
剥がれ落ちた空はまるで熾火のように赤黒くくすんで、生温く肌に貼り付くような空気を運んできた。
心なしか息苦しい。ユユは自分の前髪が冷や汗で額にへばりついている事に気付いた。手のひらで乱暴にぬぐい取る。
「ユユあれを見ろ」フェイドアが指さした。
遠く水平線の方で黒い雪がしんしんと降っている 。
「雪?」
あれが寒冷前線なのだとしたら、それが徐々に近付いてくる。近付くと降っていたモノは雪では無かった事に気づく。
「違う……」その形をユユは感じたまま言葉にした「人の……影……」と。
煤けた木炭のような色をした無数の人間が、海面に着地した。
人影はすべからく陸地を目指して前進している。
警鐘がユユの頭蓋の中で何重にも反響した。
それは未だに躍動するさざ波の音であった。喩えとして、余りにも陳腐で言葉のイメージからかけ離れている。しかし、その陳腐で緩やかな音が警告音に聞こえてしまうほどの異常事態を、ユユは経験と本能で察知していたのである。
「あれは、明らかにマズイです。シグレさん、立てますか?」
崩れ落ちているシグレの肩をゆすり無理やり気付ける。
「ああ、大丈夫だよ……」
シグレはそう言って、帽子を斜めに被り直して紅い瞳を隠すと、腰に差している刀を杖がわりにして立ち上がった。
雄々しく胸を張り海面を練り歩く人影の群れは、もう目と鼻の先にまで迫っていた――
*
夜天はひび割れ、砕け散った。ダイヤモンドダストのように光を乱反射して、何も無い空間にひび割れた月が浮かんでいた。
月の亀裂は徐々に広がり、孵る直前の卵のようにも見えた。
亀裂の隙間から何かが飛び出してきた。それは、ヨハンとマハを目掛けて高速で射出された。
ヨハンは、マハを突き倒す。
「きゃ!?」と言う声と共に自らも身を翻して、月から飛び出した飛来物を避けた。
「な、なに!?」マハが叫ぶ。
二人を襲ったものは手であった。肉感がなく非現実的な影が浮かび上がっているかのような手である。
それが月の内側から亀裂に指をかけて力ずくで殻を引き剥がしている。
べりべりと音を立てながら、月の殻が剥がれ落ちていく。その中にはねずみ色の肉塊がいた。真ん中には眼球が一つ。怖気を誘うように周囲を見回しながら、その眼球は腕をこちらに伸ばしてきた。