これからの事
どこかで水が跳ねる音がした。遠くから伸びやかに広がる波紋が足元の煌めきを揺らして、二人の顔をほんの僅かに歪めた。
二つの声が混ざり合う中、一瞬だけ訪れた不純物のような音にヨハンは目を覚ましたような感覚になった。
それからほんの少しの沈黙が訪れた。それは何も無いゼロの空間である。ヨハンとマハの間に無が降り立った。
「それは分かってる」
滑らかな口調でヨハンは言った。
マハも少しだけ喉を詰まらせてから、胸に手を当てて同じく滑らかに言った。
「ありがとう……って言うのもやっぱり変だけど。もし、私が死ぬことになったら、ヨハンが言ってた私の中にある光の魔法とその才能ってやつ、あなたが全部奪っていいから。それは安心していいよ」
そう言って彼女は、絹糸のような髪を耳にかけて、桃色の唇を少しだけ釣り上げ、薄く微笑む。
「ああ、当然。それが目的なのは今も変わらねえからな」
「なんか変なの」
ついにマハはこらえ切れずに決壊した川のように吹き出した。
ヨハンはその行動に首をかしげた。何かしらの違和感を覚えた。
マハは真っ直ぐにこちらを見据えてこう言った。
「だってさ、私なんか見捨てて無理矢理しちゃえば、いつでも目的果たせるし、煩わしい呪いみたいなのに困らなくても済むのにさ、こんな遠回りしちゃって。不器用っていうかなんていうか不思議。うん、不思議。でも、人の力を奪ってものにするなんて変な能力だよね。それで私を狙ってたのに、それで私の命を助けてくれたなんて、余計変なの」
冷たい風が吹いて、水面が波打つ。
ヨハンの白銀の髪を撫で、冷気が頬を滑った。腰から首筋にまで一直線に何者かに舌先で舐められるような感覚が襲った。
さも愉快と言った表情で紡ぎ出された声色には、やはりどこか自暴自棄になっているようで、その目と耳から得られる情報の差異に何とも言えぬ気持ち悪さがあった。
「まあ、気まぐれだよ。目的遂行には時に湾曲する事も大切ってこと。一直線の道が何も無い平坦な道とは限らないだろ?」
*
寄せては返す小波の音がどこまでもこだましているように聞こえた。
冷えた満月は鋭い輪郭で夜空に浮かび、空と海の境目が分からないほどに遠く暗い水平線から手前は揺れる星空があった。
人一倍鼻の効くユユは、鼻の奥にこびりつくような海藻の臭いが混じる潮風が苦手であった。一度深呼吸でもすれば、後頭部の方から太鼓を打ち鳴らすような鈍痛が頭蓋一杯に広がっていく。
だから気を紛らわすためにシグレとの会話に興じている。
斥候を買って出たフェイドアが先導して、ユユとシグレはそれに付いていくと言った形である。
「ユユはそうですね。ホントは戦いたくないんです。街から街へ移動して歌と踊りで観客の皆を喜ばせて、それでほんの少しのお金を頂いて。風の吹くまま気の向くままそんな人生がいいです」
そう言いながら柔らかく深い砂浜を踏みしめる度に靴跡が後ろに続いていく。
シグレは紅と黒の瞳を輝かせながら、興味深げに尋ねてきた。
「じゃあなぜ、魔法学園に?」
ユユは潮風が絡む青く長い髪を、手櫛で柔らかくほぐしてからふわりと解き放った。波音が末広がりに鼓膜を揺らす。
なんと言えばいいのか、細い人差し指を唇に添えて空を見上げながら考えた。やがて星を数えるようにぽつりぽつりと浮かんできた答えをそのまま口に出す。
「そうするためには、まず心の中を空っぽにしないと前に進めないからです。夢に向かって一直線っていうのも素敵ですけど、やっぱりそれだけじゃないんで……」
その答えに、シグレは腕を組み唸った。軽く瞳をとじて思案する彼女の横顔を見て、さばさばと男っぽいわりに存外まつ毛が長く綺麗な顔立ちをしているのだなと感じた。
「そうなんだね。魔法学園の生徒なんて軍務や冒険者、後は魔法研究者を志している人ばかりだと思っていたよ」
「ああ! 気ままな暮らしで言ったら冒険者が近いかも知れませんねぇー。でもシグレさんは凄いですね、同い年なのに立派に仕事してるんですから」
ハハッと、乾いた笑いを出してシグレは紅の方の目を手で抑えながら言った。
「私は少しだけ特殊でね。この目のおかげでずっと一人だったし、満足に学費も出せなかったからね。勉強するよりも何よりも働く事が第一だったんだよ」
「紅い目ですか?」
「うん。紅い目は悪魔の瞳。不吉の象徴だからね、本来なら誰からも受け入れられない。あのヨハンって人も多分普通の人生を送れてはいないはずさ。私は運良くキース隊長に拾って貰えたけど、それが無かったら多分闇の世界の住人にでもなって、今頃要人暗殺とかそういった事をしてただろうね」
そう、もしもの未来予想を唱えるシグレが、ほんの少し先の茂みを見つめていた。深い夜の闇に閉ざされた茂みは深い奈落のように感じられ、また闇の向こう側では何かがこちらを見ているようにさえ思えた。