裏の世界2
水の抵抗は無い。しかし、一歩踏み出す度に波紋が広がる。そこは湖の裏側。地の向こう側には夜空。頭上にも夜空が広がっている。あまり凝視すると、上下の感覚が狂って目眩を起こしてしまいそうだ。
前方には何もなくただ無限に思える空間が広がっていた。
先導しながら歩くマハは、本のページを破り何かの魔法を発動させながら小さくため息をついた。
破り空中へ投げられた紙片は薄緑色の燐光を纏い、空間に溶けていく。溶けた場所から小さな幾何学模様が現れる。
空中に刺繍でも施しているかのようだった。
「まーた、変な所に来ちゃったね」とマハがぼやく。
「んー、こうも立て続けに起こると、陰謀的なの疑っちまうな」
「だね」
ヨハンはマハの背中を見ながら、学園地下の出来事を思い出していた。同じ転送陣から移動のタイミングは違えど二度も皆と別の空間に来たという事実。
先ほどマハが言った、条件指定での転送。クリスタルの中で眠っていた地下のクロシェ。
実体なのかあやふやなほど存在感が希薄であった、先ほどの湖内へ導いたクロシェ。
全てを偶然で片付けるには流石に条件が整いすぎている。
今回のキーパーソンは明確であり、間違いなく「クロシェが何かをした。って事なんだろか?」
「わかんない。けど、もしかしてあの時の『黒蛇』も今回の一件に繋ぐための前ふりみたいなものだったのかな?」
黒蛇と言う単語が出て、ヨハンはおもむろに左手を見た。
「ないって強く言い切れないのが悔しいな」
マハが振り返り、本を小脇に挟んで両手を伸ばし、ヨハンの左手を握った。
指先は冷たく氷のようであったが、手のひらが触れることにより彼女の体温が直に伝わってきた。
無言で手を握るマハの力は次第に強くなっていく。
「マハ?」と、ヨハンは問いかけた。
「どうなの? やっぱり何かいるような気配がするの?」
前髪に隠れて彼女の表情はうかがい知る事が出来ないのだが、指先は微かに震えていた。雪の中、孤独に膝を抱ているように、静かに湿っぽく。
ヨハンは彼女の頭に右手をぽんっと添えた。
「ん、よく分かんねえな。最近じゃ魔力食われ続けてるのにも抵抗が無くなったし、いやむしろ魔法で戦ってた時よりも身体使ってるからすこぶる快調」
マハが金の瞳でこちらを見つめた。眉が少しだけ下がり、申し訳なさそうな面持ちであった。
彼女はそっと手を離して、再び本を持った。そして振り返りまた前へ進んだ。
背中越しに彼女は、言った。
「その魔力食べられてるのって何とか抑えられないの?」
「抑えられるっていうか、無理矢理魔法放出に使おうと思えば使えるけどそれって、マハの命の代わりに食べさせてるものだから、餌無くなったらまたお前の命食べに行くだろ、多分」
彼女がページを破り空中へ捨てる。
ヨハンは後ろを振り返る。朧気な輪郭で浮かび上がる緑色の光が少し左右にぶれながら、歪に並んでいる。
マハが作り出したいくつもの魔法陣は道標であり、轍であった。
そして、灯篭のようにも見えた。
夜の濃紺に満たされた水面の道を、死出の門へ歩く魂みたいだと、そう感じこの空間が身震いするほどに冷えている事に今更ながら気づいた。
「だよね」マハの一言は少なく――
「まあ、俺としてはそれでも構わないけど。もう少しだけ生きていたいんだろ?」
「そうだね。うん、生きていたい。けど、昨日言った事――もしどうしてもピンチだったら、全力で戦ってね――って言うのはホントだから」
――とても冷たかった。