裏の世界
クロシェはただ無言でこちらを見つめていた。
彼女の起伏の少ない瞳はよりなりを潜め、ただ無機質に射抜く心無い鏃のように真っ直ぐに、ヨハンを見ていた。
だが、その紅と青の瞳にはどこか揺れまどうような、訴えかけているような気がした。
勘違いかもしれないが。
しばらくこちらを見ていたクロシェは、やがて背中を見せ湖へ向いまっすぐに進んでいく。揺れる薄紫色の髪が、彼女の酷く希薄な存在感が夜の濃紺に溶けていく。
開かれた場所は広大な湖であった。水面に映る月と星々はまるで天地が逆転しているような錯覚さえ覚えてしまう。
「クロシェ? まって」
マハは、クロシェに向かい駆け出していた。
「マハ、クロシェなわけ……」ないとは、言いきれなかった。
それに言ったところで、すでに走り出した彼女を言葉で止めることは出来ない。
肩で切り揃えた金の髪を靡かせ、眩いばかりの金目をした彼女はいつもこうやって、自分から飛び込んでいく。
ヨハンは気づいた。クロシェが水面の上を歩いている事に。マハがそれに気づいていない事に。嫌な予感がした。
そして、予感がした瞬間には駆け出していた。
マハが湖の淵から、飛び出す。
「マハ!」
ヨハンは跳躍し、マハの手を掴んだ。
空中で驚き振り返るマハの瞳は揺れていた。
彼女の小さい手を思い切り引き寄せて、両手で体を包み込む。
「ヨハン……どうして?」
マハの声を聞きながら着水する。地面のように固まった水面に全身を打ち付けた。苦悶に顔を歪めながら、湖へ沈んだ。
そこは反転した裏の世界であった。水の中という感覚はない。
湖の中は水面から下の世界が見える。星空が足元に広がり、湖底にも空が広がっていた。空との距離は近く、手を伸ばせば光の粒に触れることが出来そうだ。
腕の中で丸まっていたマハがおずおずと目を開ける。
「え? え?」状況が理解出来ず彼女はあたりを見回す。
「俺に聞くなよ。こっちだってわけが分かってないからな」
マハを下ろして、先んじてそう言っておく。
「そう……クロシェがいたから思わず」
「見た」
「彼女の記憶の中? で、会話ぽいのはしたけど、実際に動いてる彼女と会話したこともないし、出会ったのかも危うい、見つけたのもほんの少し前の事だったのに、私不思議と彼女の事がすごく気になってる」
マハが胸に手を添えて、神妙な面持ちでそうこぼした。
「思わず飛び出すくらいか?」
その問いにほんの少したじろぎ、小さく頷いた。
「うっ、ごめん。でもそうだね。うん、飛び出しちゃうくらい」
「なんて言うかマハ、お前やっぱり危ういな」
「え?」
「前々から、おせっかいでトラブルメーカーだったけど、それって多分自己退廃的で自暴自棄に近いよな。多分普通なら結構ウザがられるタイプだ」
「ひどくない?」
「思ったままの答えだ」
「そっか」マハは俯き、口を閉じた。
ヨハンはその萎びた花のように縮こまった彼女を見て、頭をかいた。何か気の利いた言葉一つでもかけてあげたら、と思っていた。
彼女の思考は理解に苦しむ。感情の起伏も激しく、多感的で息苦しい。だからこそ偽善を疑われるような発言も多く、それを声や行動に出す事も厭わないところが、良くいえば素直であり、悪くいえば作り物のような嫌悪感さえ抱かせてしまう。
打算と制約によって彼女に縛られているヨハンと、底抜けに馬鹿で人の表面しか見ないユユくらいしか周りにいないのも頷ける。