終・異常事態
マリアは緊張の面持ちで、何かを考えているようであった。
「センセー、顔怖いですよ?」
「ふざけないで、これでも教師としての義務があるの。どうやったらあなた達を無事に帰せるのか考えてるんだから」
「で、何かいい案出たのか? 先生」
マリアは大きくかぶりを振った。そして項垂れた。長い睫毛から覗く瞳は、
「全然ダメ」と、そう呟く弱気な女性がいた。
「そもそも、生物学でも習わなかったけどああいう魔物は?」
「少なくとも私は知らないわ」
肉を固めて無理やり目を埋め込み生物の体裁を整えたかのような、構造的にも出鱈目な概念から逸脱したかのような存在は相変わらず、えずいているような、嗚咽のような声で唸り続けている。
その時、ユユの携帯通信石が震えた。
取り出した紫のプレート状の魔石には『マハ』とだけ通知されていた。
「あ、マハ。無事だって言ってますー」
「きなさい」
マリアが即座にユユの手を握って身を屈めたまま走り出した。
フェイドアも後ろから付いてくる。
マリアが場所移動しながら小声でユユを叱責した。
「魔物相手にするのに、何でケータイ持ってきてるの!? 魔力探知で居場所を教えているようなものでしょ?」
夜の海辺を三人で駆け抜ける。字面に起こせばロマンティックな響きであるが、その実言葉ほど素敵なものではない。
「いや、先生待ってくれ」
フェイドアが二人を止めた。
彼はアゴで化物を指した。
「……化物、ケータイに反応してない」
魔力を動力源として、遠くに離れた人と連絡するツールとして開発された携帯通信石はその利便性の反面、魔法発動と同じで通信の際魔力の流動が起こる。
これは致命的な欠点であり、魔力を感知する魔物や、魔力の動きを阻害する軍事兵器魔道遮断等と非常に相性が悪い。
そも、戦いに無縁の者達にはそのようなデメリットを考慮する必要がないので、広く一般的には普及していた。
つまり、この様な戦いの考慮される場での持ち込みは厳しく厳禁されているが、この場合。今回に限り――マリアは立ち止まり握り拳ほどの大きさの石を拾い上げて、化物の方に向かって投げた。
石は綺麗な放物線を描いて、化物の後ろの海に叩きつけられた。
ぼちゃん。と、音を立てて沈んでいった。
化物は反応しなかった。
「なるほど」
「え? なんです?」
「今回に限りあなたはナイスな判断をしたってことよユユ」
「え、あ、はい」
ユユは何を言ってるのか分からなかった。
「いい? あの化物は魔力を感知しない。耳も聞こえない。多分頭も悪い。まともに機能しているのは視覚。触覚とかはどうなのか分からないけど、つまり触れることなく見られる事もなければ転送陣を起動させて帰れるのよ」
それは、デメリットでしかない筈の道具が見出した一つの光明であった。
ユユは喜びに顔を綻ばせた。
しかし、そんなユユに釘をさすように「でも、帰ったらケータイの件についての反省文、提出してもらうからね」
「……はい」
「よろしい。じゃあ行くわよ。一気に駆け抜けるからね」
そう言って三人は砂浜を蹴った。
転送陣に向かい一直線に、途中化物の背後を通る時は流石に緊張した。
細心の注意を払っても、その気持ちが足を引っ張る事がある。ユユは何かにつまづいて転んでしまった。
しまった。そう思いながら、次第に近付く砂浜をユユはただ見つめていた。
「バカなにやってんだ」
後ろからフェイドアが、脇を抱えて立ち上がらせた。彼は珍しく小声で毒づいた。
もうすぐだ。目と鼻の先、あの紫色の魔法陣にのって起動させれば、紫色の光と共に帰還できる。
「光……?」
目の前まで差し迫った所でユユは立ち止まり振り返った。
とん。と、ユユは優しく押されて転送陣の枠内に入る。
そこには、無理やり作りあげたような笑顔でこちらを見るマリアがいた。彼女は小さく何かを呟き魔法陣を起動させる。
転送陣に光が灯った。
すると、化物はその背後からの光に気付きこちらを見た。
「センセー!」
慌てて駆け寄ろうとするが、フェイドアにホールドされてしまい身動きが取れなくなる。それでも手だけは必死で伸ばす。
マリアが背中を見せた。
軽く片手を挙げる後ろ姿は、まるで別れを告げているようであった。マリアはそのまま手に炎を灯して火球を目玉に放り投げた。
「センセー! 嫌です! また、目の前で魔物に、誰かが……殺されるの……」
その言葉を言い終えるよりも先に転送は完了し、ユユの鼻には僅かに残った潮騒の香りと、カビのすえた臭いが複雑に入り混じっていた。