孜孜忽忽(三十と一夜の短篇第4回)
男は、究極の美食を求めた。
美味と、それだけでは終わらない。
究極のみを求めた。
”美食家”
旅をするうちに、男はそう称されるようになった。
しかし男がほしいのはそんな称号ではない。究極の美食を、ただそれだけを、求めているのであった。
探しても手に入らない。
どこにもない、けれど、どこかにある。究極と呼ばれるものを、男は求めていたのである。
旅をしても、美味と呼ばれる料理をいくら食そうとも、男が満足するようなものは得られなかった。
「究極の美の館?」
とある街に立ち寄ったときのこと、男は、そう書かれた広告を手にする。
疑問符を浮かべながらも、究極という言葉には、反応せずにいられない。
一体どのようなものなのか。興味本位で、男は地図に記された場所を訪れた。
それは、館と呼べるような建物ではなかった。
雑草に覆われて、庭はひどく荒れている。その奥に見える建物は、小屋と呼ぶには大きいが、家と呼ぶのには小さいくらいである。
赤い煉瓦造りで、お洒落な雰囲気は漂わせているので、もったいないな、と男は思った。
そしてそれは、とても究極のある場所とは思えなかったが、案外こういった場所にあったりするものだと、男は無駄に豪勢な門を潜った。
「美の館、ねぇ。館らしいのは、この門だけじゃないか。それに、よくぞまあ、この汚い場所が美などと」
馬鹿にしたように言って、埃に混みれた扉に男は手を掛ける。
扉を押す手に力を込めれば、大きな音を立ててゆっくりと扉は開いていった。
建物の中も汚れていて、掃除もしていないのかと、男は顔を顰める。
しかし究極と聞いては、引き返せないのがこの男の運命なのである。それはもう、呪いとすら言えるのかもしれない。
「いらっしゃいませ。お客様は、何をお望みでしょうか」
歩を進める男に、老人の声が掛かった。
声は男性のものか女性のものか、判断しがたいほどに嗄れていた。
黒いスーツを身に纏い、歳を得てもなお漂う紳士的なその容貌からは、その老人は男性なのだろうと判断される。
中性的な笑みを浮かべる老人を怪しみながらも、男は迷うことなく答えた。
「究極の美食を、お願いできるだろうか」
「承りました」
男の答えに頷いて頭を深く下げると、老人は一瞬にして消えてしまった。
それにも男は然程驚いた素振りも見せず、鼻を鳴らし、冷めた視線を老人の消えた虚空へと向けていた。
「お待たせ致しました。究極の美食にございます」
案内されてもいないのに、男は勝手に奥の部屋へ行き、席に座っていた。
老人も老人で、迷うことすらせず、消えたとき同様に、男の目の前に出現したのである。
お互いに、意地を張っているのかもしれない。
全く驚くことなどなく、男は不敵な笑みを浮かべ、老人は揺るがない笑みを貼り付け続けていた。
「はんっ。こんなのが究極と?」
老人から手渡されたものを見て、男は思わず声に出して馬鹿にする。誂われているのだと思ったのだ。
投げ捨ててしまおうとしたのだが、老人の怪しい笑みを見て、男はそれを躊躇ってしまう。
「信じないのならば、それも構いません。捨ててしまえばよろしいでしょう」
そんな声が聞こえたと思うと、老人の姿はもう見えないものになってしまっていた。
「究極の美食、……これが?」
疑うように、男は老人に渡された”それ”を見た。
とても究極だとは思えない。何度見ても、老人の言葉を信じることなど、男にはできそうになかった。
しかしそれが究極の美食なのだと言われてしまえば、いくら信じられなくても、食べてみずはいられないのであった。
この男、目の前で毒を入れられたとしても、それが究極の美食なのだと称されれば、食べてしまいそうなところである。
食べ物にも到底見えないものであったが、男は意を決して口に放り込んだ。
そして咀嚼してみれば、口に広がる芳醇な香り。食したこともないような味であった。
「何を使っているのだろうか。これが、究極というものなのだろうか。あぁ」
感動のあまり声を漏らし、瞳を閉じて深く”それ”を味わう。
何でできているのか、そもそも今何を食べているのか、そんなこともわからないのだけれど、男にとってどうでもいいことであった。
美味しければ、毒であろうとも構わないというような男であった。
「究極の美の館。究極の美食。究極」
飲み込んでもなお残るその馨しさ。幸せな心地に満たされていくのとはまた違う。美味、だなんて、言うこともできないようなものであった。
呟いた男は、いつの間にか、自分が暗闇の中にいることすら、気付いていない様子であった。
吹き付ける吹雪も男にとっては苦痛すら感じず、究極の美の館という空虚な妄想の中で、男は瞳を閉じている。男の瞳が、開かれることはなかった。
男が求めた究極の美食。
やっと、美食家の男は、究極に出会ったのだろう。
それが何であるか、知らないままであろうとも。
お読み頂き、ありがとうございました。
この館が、「たぬきのいたずら」だったら、結構ほのぼのした雰囲気になりますね。童話をも名乗れますか。
実際に何であったのかは、皆様の想像にお任せしたいと思います。
拙い文章ではありましょうが、これからも宜しくお願い致します。