紫霄に歌う
その日、宮廷騎士隊兵舎は騒然とした空気にあった。
「おい、聞いたか?」
「ああ、というか、俺は実際この目でみたぞ」
「本当だったのか? あの噂」
いつもならば厳戒な統制を布かれた第一騎士隊ですらも、同じ騒がしさである。個々人の声は小さいが、それが広範囲に及べば耳に障るものにもなり得る。件の第一騎士隊副隊長であるレイズは、この事態に頭を抱えていた。
「お、俺にどうしろっていうんだ……! これを収拾しろっていうのか……!?」
十分に悩んだ末に、若干二十六の副官は腰に下げた剣を抜刀した。
どうしようもないのだ。なんせ、普段はこれを抑えてくれる隊長が今朝は所用で不在。……となれば、残った手段は力ずく。
「いい加減にせんか! お前ら、まとめて鍛え直してやるから訓練場に集合だ!!」
そう叫ぶことしか、彼にはできなかった。
そもそもの始まりは、第一騎士隊付きの世話役であった女性が娘の出産で里に下がったことにあった。世話役というのは、普段訓練や遠征で多忙な騎士たちの食事や洗濯、掃除を引き受ける役目であるが―――。
ベテランの宮廷女官であった彼女の引き継ぎが誰でもいい訳はなく、采配は女官長に渡った。
そして三日間に渡る内輪での会議の結果、それを言い渡されたのは。
「お洗濯物がございましたら仰ってくださいね」
「は、はいっ! いえ、自分は結構です!」
「わかりました。それでは御用などございましたら何なりと」
「了解しました!」
怜悧な顔の筋肉をいつになく最大限に凍らせて、セインはその場に立ちつくした。彼をよく知る友人から見れば、それが無表情ではなく呆然としているものだということが分かる。
「……アリア? 何をしている」
「あ、スカイサード隊長。おはようございます」
書類仕事を終わらせて兵舎に入り、訓練を見ようと騒がしい方面に足を向けるとこれである。
後ろ姿からまさかと思って声を掛けた先の女官は、あっさりと振り返った。洗濯物を干していた途中だったのか、その手には洗ったばかりと見える手拭いが握られている。
「ああおはよう、アリア。……ではなく、何をしているのかと聞いている」
「え、あの……お聞きではありませんでしたか? リーガル副隊長には昨日のうちに伝わっているかと…」
「レイズ? 昨日は私が城に居なかったからな、そういえば今日もまだ、」
アリアの言葉にセインが怪訝そうに目を細めたその時、「隊長!」と鋭く声が飛んだ。
「遅いですよ隊長! この事態をさっさと収拾してくれ!」
ずかずかと足取りも荒く微妙な空気の間に踏み込んできたのは、丁度話題に上っていた男だった。こちらまで近づいてきて初めてアリアに気が付いたらしいレイズは、ああ、と口端を上げた。
「君が代理の世話役か。悪かったな、朝から挨拶もできないままで」
「いえ、お忙しいようでしたし……副隊長のリーガル様でございますね。アリア・フェイドです」
フェイド、と口の中で呟いたレイズに、セインが「妹だ」と一言添える。
レイズにしてみればアリアといえば、隊長と何らかの繋がりがある女官、という認識でしかなかった。
しかしその一言で、納得したように頷く。
「そうかディオスの」
「? 兄をご存じですか?」
「ああ、スカイサード隊長と俺、それから君の兄は元々同期だったんだ」
そして、こいつが出世頭だ、と自らの上官の肩に手を掛ける。
「むさ苦しい所だが、困ったことがあったら全部こいつに言えよ」
幾らでも手伝わせてやれ、と上官への敬を除けて笑ったレイズに、セインも苦笑した。
「そんな! セ…スカイサード隊長にそのようなこと、」
「いい。アリア、何かあればすぐに私の元に来れば良い」
「え、あ、はい……お気遣い、感謝いたします」
では仕事に戻ります、と頭を下げたアリアを見送ってから、レイズは再度セインの肩に体重を掛けた。
「たーいちょう」
「何だ、気持ち悪い口調はやめろ」
柳眉を顰めた友人に向かって、少しだけ声を低くして早口に言う。
「高嶺の花の世話を受けられるなんてって、兵舎中が浮き足立ってるぜ」
「………」
「気を付けてやれよ、セイン。騎士っつったって、ここは男所帯だからな」
それは副官としてではなく、友人としての言葉。
普段は部下として接しているレイズだが、ふとした瞬間に良い意味での横やりを入れられる男だ。そしてその言葉にセインが紫の瞳をすっと眇めて表情を改めた、その僅かな変化を感じ取れる一人である。
「……そうだな」
気を付けておく。
自らに言い含めるように口にしたセインの瞳が、少女を見るときは優しい色を灯すことも、知っていた。
「結局、どうしてお前が騎士隊の世話役などになったんだ」
セインがいつになく真剣な瞳でそう問うたのは、翌日の夜のことだった。
例によってアリアの私室へ談笑にきていたのだが、その日も当然アリアは一日中世話役として働いていたわけで。
改めて騎士や兵士たちの反応を目の当たりにしたセインがそう訪ねたくなるのも無理はなかった。ふと視点を変えてみれば否応なしに目に飛び込んでくる、アリアに意味無く視線を送る部下たち。
訓練に身が入っているのかいないのか。少なくとも志気は上がっているが、とセインは密かに嘆息した。
アリアは茶葉を選んでいた手を止めて、困ったように笑った。
「なぜ、と聞かれましても……。わたしも急に女官長に呼ばれまして、取りあえず試験的に、と」
「試験的?」
「ええ、どんな影響が出るかわからないそうです。意味が計りかねたのですが、お分かりになりますか?」
本当に訳が分からない風にアリアが小首を傾げる。それを聞いて、セインの方は得心した。
なるほど、そういうことか。
「確信犯か、重鎮共が……」
「え?」
「いや、何でもない」
つまり志気が上がるか、もめるかのどちらか。そういうことだろう。
今の所どちらの影響も微々たるものではあるが、時間の経過次第で偏ってくるはずである。
そんなことにアリアを使うとは、一体どういった了見なのか。
「……セイン様?」
「ん?」
「怒っていらっしゃいますか」
言い難そうに言ったアリアの言葉に、セインは顔を上げて瞠目した。
「なぜ?」
「今日一日、どこか苛々していらっしゃたように思ったのですが――何か嫌な事でも?」
「………」
いえ、わたしごときが口を出すことではないのかもしれませんが。
差し出がましい真似をしてすみません。
慌てて言葉を続けるアリアを、セインはどこか呆然として見つめた。
表に出したつもりもなかったし、そもそも自分が苛立っていたとは思わなかった。
ただ、どこか胸がむかむかする、そのくらいのことでしかなかった。
自分でも自覚していなかったことに、この少女は気付いたというのか。
尚かつ自分の感情の機微に気付ける人間が極端に少ないことをセインは知っていた。
「……苛々、といえばいいのか」
「え?」
暫く思考した後に口を開いた男に、アリアは顔を上げた。
途端にこちらを見つめていた紫の視線と自分のそれをしっかり絡めてしまい、動揺する。本人は知らないだろうし、他の誰が知っているのかもわからないけれど。
紫の瞳は、朝焼けのアメジストは。宵闇の中で、深みを増して妖艶な光を灯すこと。
蝋燭の灯火を反射して、不思議な光はちらちらと揺れる。
いつからか、セインがアリアの私室を訪れるようになった頃に気付いたことだ。
(自覚は、おそらくなさっていないけれど)
その色に、アリアは酷く弱い。
見つめられるだけで落ち着かない気分になるし、多分顔も赤いだろう。
夜でよかった、と心底思う。
アリアは動揺を気取られないように必死で押し殺して、湯気を立てるカップを男の前に置いた。
それから自分も温まったそれを両手で包み持って、セインの言葉を待つ。
「怒るとまではいかないが、気に入らなかったのは確かかもしれないな」
「……?」
首を傾げたアリアに苦笑して、セインは腰を上げた。この少女は、なんだかんだ言って自覚に欠ける。ふと腕を伸ばして、手の甲でアリアの頬にそっと触れた。心なしか熱いのは、紅茶のせいか。
けれどさらりとした柔らかい感触は、紛れもなく少女のものだ。
(―――!)
対して、更に動揺したのはアリアである。
すぐ傍まで近づいた紫と、まるで貴重品に触るかのようなぎこちなさをもった、僅かな、けれど確かな接触。
抱きしめられたことは以前にもあったが、状況が違う。あの時はアリアも取り乱していたし、二人ともどこか感傷的になってしまっていた。
けれど、今は。
呆然と見つめた先で、セインは自嘲するように笑った。
自己分析はあまり得意ではないんだ、と小さく前置く。
「感情を抑える術には長けているという自負はあったのだが……私もまだ未熟なのだな」
「……」
「アリア」
「あ……はい」
「気に入らないことがあるとすれば、お前が世話役になったことだ」
(……え――――)
セインの言葉に、アリアの表情が色を失った。冷水を浴びせられたように、心臓が収縮する。
触れていた頬が冷たくなった事に気付いたのか、セインは怪訝そうな顔をする。
「わた、わたし、やっぱり力及んでいませんでしたか」
「は?」
「一生懸命お仕事させて頂いたつもりですが、至らないところがあったのですね」
すみません、謝った声は殆ど音にならずに震えていた。鋭い刃物で突かれたかのような痛みが、胸に走る。
誰に言われるよりも、セインにそれを言われたことが痛かった。泣きたくない。ここで泣いたら、卑怯だ。わかっていたけれど、アリアはどんどん溜まる雫が視界を歪ませていくのを感じていた。
そして直後、白い頬を流れた水滴に、セインは今までになく慌てて少女と目を合わせた。
「アリア!? ……いや、違う、私の言い方が悪かった」
「で、ですが」
「違うんだ、だから――泣かないでくれ、言っただろう? お前に泣かれるとどうしていいか分からないと」
それでも一度決壊した涙腺は簡単には言うことを聞かない。
殆ど勢いでぼろぼろと流れる涙に、アリアは困り果ててセインを見上げた。
「………っ」
「セイン、さま?」
視線が絡んだ瞬間にばっと目を逸らしたセインに、アリアは僅かに首を傾げた。
暫く片手で顔を覆って黙っていた若き隊長は、はあ、と深く嘆息して再びアリアに視線を向けた。
「やはり、アリアは自覚が足りない」
「え?」
「こんな状況で、そんな顔で、無防備に男性を見上げるものではない」
言葉と同時に紫の双眸が近づいて、アリアは反射的に目を閉じていた。これ以上近い距離で、直視できない。
包むように頬に触れたのはひんやりとした手のひらで、もう片方の頬に静かに触れたのは。
「……あ」
今までに無いくらいに近いセインの気配に、アリアは硬直する。
(どうして、セイン様)
涙の跡をなぞるように唇がすべり、目元にたどり着いて、触れたときと同じように静かに離れた。
それは神聖な儀式のように。
「……言っただろう。泣かないでくれ」
耳元で囁かれて、また泣きたくなる。その声に込められた優しさが、否応なしに伝わってくる。
優しい触れ方に、熱が上がる。宵闇に聞こえるのは、自分と相手の息づかいだけだった。
「アリアの働きは十分だ。だが、騎士隊は男の集まりで、アリアは――…」
心配なんだ。
僅かな躊躇のあと、噛みしめるように言われて、アリアは未だ熱に侵されたように頷いた。
「私は言葉が足りないし、上手くも言えないが……アリアがあの空間にいるのは気に入らない」
「セイン様、こどもみたいです…」
「……かもしれない、な」
思わず呟いたアリアの言葉にも、セインは困ったように笑うだけで、否定もしなかった。
「だけど、そうだな、こうしてアリアの近くにいるのは、私だけだと錯覚していた」
(錯覚、だなんて)
そんな風に、幻にして欲しくなかった。
アリアにとって、こんな距離でも嫌悪感無くいられるのは、誰でもない。
「……セイン様、だけです」
「アリア?」
「錯覚じゃない、セイン様だけです。……セイン様だけでいい、です」
言ってはいけないことがあった。
越えてはいけない線があった。
願ってはいけない願いがあった。
咲かせてはいけない、花があった。
(だけど)
溢れて、花開いて、どうしようもなかった。
「アリア」
「あっ……いえ、あの、ですから」
「以前に言ったな。届かない、空もあると」
それはまだ、再会して僅かな逢瀬しか重ねていなかった冬の始まり。
諦めようとした。どうしても届かない身分の差が、まるで天地のそれのように感じられて。男の持つアメジストが、いつも見上げる朝の空に似ていたから。
「言いまし、た。だって……いえ、埒もない事を申してすみませんでした」
「待て、急ぐな」
わすれてください、そう付け足した言葉を遮って、セインはアリアの腕を取った。
「アリア、頼む。目を逸らさず聞いて欲しい」
「………っ」
「空に手が届かなくてもいい」
「………」
「アリアが、望むのなら。例えどこにいても、私が手を伸ばす」
届くまで、伸ばし続ける。
「だから、諦めないでくれないか。傍にいることを、もし、許してくれるのなら」
セインのぎこちない言葉に、アリアはいつの間にか止まった涙を再び溢れさせた。
諦めなくていい。手を伸ばしても、いい。
(花は、枯れない)
決して届かないと思っていた空は、すぐ近くに広がっていた。
「わたし、セイン様に、伝えたいことがあるんです」
もう殆ど言ってしまったようなものだけれど、それでも。
頬にそっと添えられた手に自らのそれを重ねて、アリアはまっすぐに紫の瞳をみつめた。
「あの雪の日から、わたしの心は貴方にありました」
「何度も何度も、諦めようとしたんです。……でも、出来ませんでした」
見上げてくる視線を受け止めて、セインはアリアの言葉を聞いていた。
一言も聞き逃さまいとするように、その視線の温度を、感じようとするように。
「わたしはずっと。――セイン様に、恋をしていました」
花びらが触れるようにそっと落ちた言葉と同時にその身体を柔らかく抱きしめると、少女の身体は冷え切っていた。けれど緊張が解け、体温が融け合ううちに、それも弛緩していく。二度目の抱擁は、宵闇の中。
腕に力を込めると、少女の小さく華奢な身体を実感した。そうだ、この少女はこんなに儚い。
「好きだ」
「……っ」
そう言ってからゆっくりと身体を離すと、セインは片膝をつき、正式な騎士の礼をとった。
必ず守る。無言の誓約を、少女は察することが出来た。だからこそ、息をのむ。
「……そばにいて、いいんですか」
やがてぽつりと落ちたアリアの呟きに、セインは顔を上げて笑った。
「頼んでいるのはこちらだな」
「………許されるのなら。傍に、おいて頂けますか?」
悩んだような、けれど確固とした決心を込めた目をした少女に、男はそっとその手を取った。
手の甲に軽く口づけて、一言「御意に」と呟き、口端を上げる。
立ち上がると視線の高さは逆転し、セインは再びアリアを見下ろす形になった。
「アリア」
「はい」
「手が、届いただろう?」
そう言って微笑んだセインの笑顔は今までに見たそれのどれよりも優しかった。
つられるようにして頬を緩めたアリアの笑みにセインが言葉に詰まったことなど、当人は気が付かなかったが。
いつもどこか緊張したようにぎこちなく微笑むアリアの笑顔は、その度に胸に影を落とした。
(だけどこれが、アリアの本当の笑顔、か)
素直に綺麗だ、と思う。
綺麗だと思う、その気持ちがまだ自分にあったことにも驚いた。
――愛しいと思うその気持ちを持てることが、誇らしかった。
今まで見上げていただけの紫霄が、目の前に広がる。
朝焼けに融ける、鮮やかなアメジスト。
咲くことを拒んでいた花に恵の光を注いだのは、朝の空だった。
(望んでも、いい。……願ってもいい)
手を伸ばせないでいた自分を、空は優しく包んでくれた。
咲かせてはいけない花があった。
けれど小さなその花は、確かに光を浴びていた。
そして今歌うようにあざやかに、花開く。