紫霄に恋う
鮮やかに色づく、花の色を誰も知らない。
けれど、それはいつか結ぶ花。
人目を忍ぶようにして、彼の人の腕に抱かれ、慟哭した夕闇の日から少し。
あの後は何があったということもなく、スカイサードはアリアが落ち着くまで、自分の軍服に彼女の頭ごと押し付けていた。
漸く泣き止んだときには既に日は落ちていて、まだ仕事のあったアリアは慌ててその場を離れた。
午前の最後の仕事として、今日もアリアは両手いっぱいに洗濯物を抱えて回廊を歩いていた。結構な量に比例した重量に痺れる腕に眉を顰めながら、これが終われば休憩だと自らを奮い立たせる。
女官といえば優雅な職業であると城下では町娘の憧れとされているらしい、という噂を思い出して嘆息した。
うそだ、とつぶやきながらアリアは軽く瞑目した。そんな甘い世界ではないのだ、この天空は。
アリアの場合、家族と死に別れ、生きていくにはここしかなかった。自らを磨き、衣食住の心配のない場所を目指せば、おのずと限られてしまった。
働き始めてすでに十年近くを数えるが、それでも後悔はしていない。
(だって、………逢えた、もの)
その人物を思い浮かべて、まずはじめに浮かぶのは紫の瞳、そしてぬばたまの黒髪。助けられた雪の日と同じに凛と立つ男は、自分とは遠く離れた身分にあった。
(今思えば)
休憩に入り、自室で茶を淹れる準備をしていたアリアは、ふと茶葉を扱う手を止めた。
(あんなにお時間を頂いたのに……わたし、お礼も申し上げてないわ)
冬も近い、白いものが舞っていた夕刻だ。体も冷えていただろう。
鍛練の後という疲れきっているに違いない時間をあんなことに割かせてしまったという罪悪感と、かすかな喜びが浮かんでしまう。
気にかけてもらったという、ただそれだけだ。抱きしめられた腕の感触が、離れない……ただ、それだけだ。
けれど彼が自分のような一介の女官を心にかけるとは露ほども思わない。だから、期待もなにもなかった。
スカイサードとの接点は、脆くて儚い。
慌ててそれを掻き消すと、アリアは程よく蒸されたポットを傾けた。
一息ついたところで、コンコン、とノックの音が部屋に響いた。
アリア、と呼ぶ声に短く答えると、静かに開いたドアから先輩の女官が顔を覗かせた。
「よかった。あなた、休憩時間に部屋にいないことが多いんですもの。ちょうどよかったわ」
「はい?」
「ご来客よ」
宮廷女官には、城の一部が居住棟として与えられている。
防犯の意味を込めて、面会の際には一応その入口での身分証明を必要とされていた。
気まぐれにフレイアなどがお忍びで訪れて自分をからかっていったりするから、自然と思考はそちらにいく。
僅かな可能性が頭を過ぎったが、彼の人は今も訓練中のはずの時間だ。都合が良すぎる自分の考えに苦笑しつつ、アリアは居住まいを正した。
(フレイア様ったら…)
今は帝王学か何かの教師が来ている時間ではなかったか。
この国では、王族は姫であろうともその教養として王になるべき教えを受ける。
フレイアがそれをあまり好いていなかったことも、偶に逃げ出していることも、彼女付きのアリアは知っていた。基本的に我侭で通っている姫だが、その根本はひどく思慮深いとアリアは感じ取っている。
道化のふりをして、使命から逃れるのもどうかと思うが――それは、自分が口出ししてはいけないから、言わなかった。
しかし、どうもスカイサードとの仲をからかうのが最近の楽しみになっているようでたちが悪い。
アリアはふと目を伏せると、それに、と呟いた。
「……邪推にもほどがあるわ」
自分の想いを、自覚したくはない。気付いていないわけではないが、それでも。
悟ってしまった。
咲かせてはいけない、花もあるということ。
遠すぎる身分は、低い側の自分から見れば絶望的な距離。
「いつだって……空には手が届かないの」
「何のことだ?」
「……、え?」
降ってきた声に視線を上げる。予想外に顔が近くにあって慌てた。
一瞬その男を想っていた自分の見せた幻かと思ったが、その気配が本物だった。
「す、スカイサード様!?」
「ああ、入ればよいと先程の女官に言われたので覗いてみれば…そんなに深刻そうな顔でどうした」
「え、あ……何でも……たいしたことではないのです」
まさか貴方のせいですとも言えず、黙り込むしかない。そもそも何故スカイサードがここにいるのか。
問えばあっさりと「逢いにきたんだ」と返された。何故、と質問を重ねる勇気もなく、アリアは新しいカップを手に取る。
届かない空に手を伸ばしかけているのは、自分だ。
近づいているような気がしているのは、自分の勝手な想像にすぎない。
調度お茶を入れていてよかったと、少し痛い沈黙に耐えながら湯気に表情を隠す。
スカイサードはそれを見つめながらふと呟いた。
「…そういえば」
「はい」
顔を上げれば視線が絡む。紫の空に、囚われる。
「セインで良いと言ったのに」
一瞬何を言われているのか分からず、アリアは呆けた表情を男に向ける。
思考したのは数瞬で、すぐにあの夕刻の出来事を思い出して赤面した。本人を目の前にして、聞き流すわけにもいかなかった。
「あの……それは」
「……迷惑、だっただろうか?」
思いがけないスカイサードの言葉に、アリアは息を呑んだ。
「いいえ、あの、迷惑だなんてそんなこと……! わたしあの時、嬉しかったんです……!」
口を滑らせたことに気付いた時には既に遅く、スカイサードはゆるく目を見開いてアリアを見つめていた。
「――――え?」
「あ、だからその、ええと」
慌てて代わりの言葉をさがすも頭の中は真っ白だ。
「……そうか」
ほっとしたような、耳に心地よい低音に視線を向けると、存外に優しい視線と交差する。無表情を貫しているスカイサードのその笑みは、かつて雪の日に見たそれと、ぴたりと重なった。
(ああ、やっぱりこの人は)
優しくて、まっすぐな人。
まさかそれだけが気になって、いつもなら訓練中のこの時間に、ここまで訪れたのだろうか。
知らず自分も微笑み返しながら、アリアは胸の奥がふわりと熱を帯びるのをそっと感じていた。
「はい。……先日は、ありがとうございました。ご迷惑おかけして、ごめんなさい」
言いたいことが言えて、アリアは胸を撫で下ろした。
ずっと、お礼が言いたかった。助けてもらったのは、もう、命だけではないのだとアリアはわかっていた。
(わたしの心は、あの雪の日に縛られていた)
どれだけ乗り越えたと言っても、泣くことはできなかった。
自分にそれを、許せなかった。
凍らせた心の一部を、溶かしてくれた優しさはスカイサードのものだ。
「案ずるな」
「え?」
「迷惑などしてない。寒い日だったから――むしろ、暖かくて助かった」
言葉と一緒にこぼれた笑みが、灼きつく。
優しさに触れるごとに、色づく何かを感じていた。
今はまだ、見上げるだけの紫霄だけれど。
「――お茶をどうぞ、セイン様」
その花に、祈りを。