表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紫霄に咲く  作者: 葉月 叶
本編
2/7

紫霄に舞う

花は芽吹き、やがて咲く。

確かに咲いたそれに気づいたとき、人はそれを手折るのだろうか。

それとも、枯れるに任せるのだろうか。


―――― 誇らしく咲いた花に、名前はまだない。







見上げた空は、今日も青い。

この間まで湿り気を帯びた風が頬を撫でていたのに、身体を包む空気は冷然としたものに変わりつつあった。

仕事柄、この季節は嫌いではない。冬ではなく、その前の季節だ。女官たる者、きびきびと動き、甲斐甲斐しく働くのが美徳とされているのだ。相当量の仕事は、こういった涼しい季節の方がやりやすい。


「あ、いい風……」

さらりと吹いた涼風に目を細めて、アリアは窓辺を離れた。豪奢な廊下と、同様に贅を凝らした扉と窓枠。王宮は今日も変わらず壮観である。


自分の付き添いの対象である二の姫の自室は、その廊下を進んだ先にある。

すれ違う先輩女官や王族に会釈をしつつ、目指す部屋へと優雅に歩む。

歩き方、話し方、笑い方。全てが型どおりのこの世界に、真実の青空などあるのだろうかとふと思う。もう一度ずらりと並ぶ窓を眺めるが、それらはまるで豪華な額に入った何枚もの絵画のようだった。


この絵画が、一番綺麗に、一番印象深く見える瞬間を、アリアは知っている。


朝焼けの、アメジストを溶かしたその色が。

夜明けの光と混ざりあった、その紫霄が。

何よりも美しいことを、知っている。


「……仕事、いかなきゃ」

もう一度だけ切り取られた空を見つめて、アリアは前を向き直った。

憂いを帯びた少女の顔から、宮廷女官の顔に戻ったあとで。







「姫、アリアです。失礼いたします」

扉をノックし、柔らかく微笑む。

アリアが仕えているのは、現国王と王妃の間に生まれた二番目の姫だ。

名をフレイアといい、美しい金の髪と碧眼、そしてなによりその美貌は、諸国で有名になりつつある。少し高慢だが、十七という年齢にも関わらず、大人びた少女だった。

「アリア。丁度良かったわ、お茶の時間にしようと思っていたの。紅茶を淹れて頂ける?」

「かしこまりました」

年が同じということでアリアが彼女付けの侍女になったのは、もう随分前のことになる。

「フレイア様、今日はどの茶葉になさいますか」

「そうね……。アリアに任せるわ」

「はい」

頷いて缶を手にする。今日は良い天気だから、すっきりとしたミント系のものがいいだろう。でも少し肌寒いようだから、熱いものにしよう。

考えながら茶器を用意していると、ふいにフレイアが口を開いた。

「そうそう、アリア。あなたがセイン・スカイサードのお知り合いだという噂はほんとう?」


「……、はい?」


一瞬、呼吸が止まった。

動揺を出さぬように努めて、フレイアを振り返る。

「突然どうなさったのですか。スカイサード様、というのはあの、騎士隊長の?」

「そうよ。それ以外にはいないでしょう? ねえ、どうなの?」

自分を見つめてくる王女の目は、どこか深いところにちらちらと炎を揺らめかせている。

何なのだろう。自分に、何を訊きたいのか。

唐突な不安感に襲われながら、アリアは努めて冷静に振る舞った。気づいてはいけない。

この想いを、表に出すなんてできない。

「知り合い、と仰られましても……。どうしてわたくしがそのような」

「だってセイン本人が言っていたわ」

「………え」

聞き慣れないセイン、という単語に気を取られている間に、何か重要なことを聞き逃してしまった気がする。

ああ、あの人の名前だわと思うと同時に、その名を呼び捨てられる主を少し羨ましく思う。

けれど、今。……自分のことを?

(あのひと、が)


「スカイサード隊長がですか?」

「そう。以前お逢いしてお話したことがあるのだけれど。侍女の話で貴女の名前を出したときに」


――― アリア・フェイドでしたら自分の知人にございます。姫付きの侍女だったのですね――――


容姿端麗として通る宮廷第一騎士隊長、セイン・スカイサード。

流れる黒髪と、サファイアの瞳は、多くの女性を魅了するという。


アリアの目の前にいて、どこか威圧感を醸し出すこの姫も、きっとその一人なのだろう。

その端麗な男が美しいと評判の自分を目の前に、自分以外の女のことを気に掛けたのだ。

面白いわけがない。

けれど彼女が思っているような関係ではないのだ、自分達は。

この王宮に、この紫霄に、自由などない。



『今度は、ぶつからぬようにな』

掛けられた言葉、ゆるい苦笑。

細められたアメジストに映る、自分の姿。

軽く頭に載せられた手が、何よりも優しかった。



「アリア?」

訝しげに掛けられた声に、アリアは顔を上げる。

そしていつものように、柔らかく、完璧に、ほほえんだ。 

「……はい、存じ上げてはおります。けれど、一度お話しただけですわ。兄が知り合いでしたので……」

「あら、そうなの?」

「はい。さ、フレイア様。お茶が入りました。どうぞこちらへ」

「ありがとう。すこしお腹が空いたのだけれど、何かあるかしら」

「そうでございますね、夕餉までお時間がありますし……わたくしは下がりますが、厨房に申しつけておきますわね」

そう、王宮においては一度しか話したことはない。

雪の降る幼い日、アリアはスカイサードに命を救われた。王宮で再会したのは偶然だ。


フレイアの元を辞して、アリアは廊下を進む。厨房に菓子を届けるように伝え、踵を返す。

西日が射し込んで、目の前に一枚フィルターが掛かったかのように視界が暗い。


ゆるやかな冬の気配に、アリアはふと息をついた。

冬は、嫌いだ。

あの白く黒く、赤い日を思い出してしまう。記憶との邂逅と共に思い出すのは、兄と両親、それから――――。

(だめだわ)

あの温もりを、忘れられないなんて。

伝えてはならない想いに身を焦がして、自分に嘘をついて。いいことなんてひとつもないけれど、だけど彼は第一騎士隊長だ。自分との身分は、雲泥の差。

会いたくなかった。

けれど、会いたかった。


一度だけ呼ばれた名前が愛しくて、愛しくて。


「………アリア?」


そう、こんなふうに。


「………え?」


思わず立ち止まり、アリアは辺りを見回した。今、確かに聞こえた。聞き間違えるはずがない。聞き慣れない声、けれど忘れはしない声が。

(わたしの名前……)

「どうした、顔色が優れないが」

「あ……」

ざく、と地面を踏みしめる皮の軍靴。

首筋で切られた黒髪が、風でさらりと揺れる。

同じ漆黒の軍服、黒一色の中で唯一映える深い紫の瞳。

「スカイサード様」

「久方ぶりだな、息災か」

「あ、はい。そちらもお元気そうで、なによりです」

回廊に差し掛かり、兵舎もすぐ傍である場所だ。厨房は奥にあり、そこに行くには否応なしに通らなければならない道。まさか、逢ってしまうとは思わなかったけれど。

そう思いながら、そっとその無表情な容貌を見上げた。

「鍛錬中でございますか?」

「ああ、今し方終わらせた。こう日が陰っては士気が落ちて敵わない」

ふ、と苦笑されて、無意識に心臓が跳ねた。


「二の姫の侍女だったのだな。……色々と大変な御方だと聞いているが」

「あ、いえ、ですが」

フレイアは、美しいが使用人達の評判はあまり良くはない。高慢な気質のせいもあり、その時に無茶な命令のせいもある。

けれど、とアリアは思う。

「フレイア様はきっと……お寂しいのでしょう」

「寂しい?」

「はい。一の姫様を王妃様は特に可愛がられておりますから……ですから、二の姫であられるフレイア様は」

放って置かれる子供の気持ちなど分からないが、一人の寂しさは知っている。

「……そうか」

「はい。それにわたしも、一人ですから」

だから、出来る限りの願いは叶えてあげたい。

出来る限り、傍にいて、お世話をして、お話相手になれればいい。

「そういえば……お前は、幾つになる? いや、女性に歳を訊くものではないか」

唐突な質問に、アリアは首を傾げた。それからにこりと笑う。……作り笑いではなかった。

そんなことを気にする目の前の青年が、どこか近くに感じられたから。

「ふふ、いいえ。小娘にそのような気遣いは無用ですわ。十七になります」

「十七? あれからもうそんなに経つのか。家族は……」

「いえ、もういません。あの夜で、全部」


俯き、耐える。

時折思い出してしまう鮮明な映像は、随分薄れたようではあるけれど。

そんなアリアの様子に、スカイサードは自分の失言を見つけたようだった。

「すまない、辛いことを。それに、私がもっと早く着いていれば……」

「!」

その言葉と表情に、アリアはばっと顔を上げた。

「いいえ、いいえ…!」

柳眉を歪めた目の前の青年に、アリアは縋るようにして言い募る。

「それは違います、スカイサード様。わたし、本当に感謝しています。助けていただいたこと、感謝しています」

このように後悔させてはいけない。あの記憶は自分が乗り越えなければならないものだ。

「アリア」

「本当です。あの場でわたしが死んでいれば、誰が両親や兄を弔うのです? 家族に送ってもらうことほど、嬉しいことはないのです」

「だが……」

「わたしは、兄を、両親を送れてよかった。他でもない自分が、最期に見送れたことが嬉しかった」

「………」

「兄は、照れ屋な気性でした。両親は、優しかったのです。それを覚えているわたしは、生きております」

「………」

「愛されていたことを、覚えているのです。三人のぶんまでわたしは生きている。生かしてくれたのは貴方なのです」


自分が何を言っているのか分からなくなっていた。

けれど、スカイサードにそんな悲しい顔をしてほしくなかった。

「だから、スカイサード様。わたしは貴方に感謝しています。ありがとうございま………っ」


刹那。


どん、と頬に堅い布の感触がした。

「……あ」

身体に回された腕に力が入って、そのまま頬が押し付けられる。

目の前は漆黒に包まれていた。

抱きしめられていることに気づき、離れようとしたが腕の力は緩まない。


「泣いていい」

「………え」


どくどくと跳ねる鼓動は、きっと伝わっているだろう。

誤魔化しようのない頬の赤みも、気づかれていることだろう。

あんなに、忘れようとした気持ちなのに。気づかない振りをしてきたのに。

どうして、どうして。

「わかっている。アリアにも、私にも、非などない。あの夜のことは、もう過去だ」

「……スカイサード様」

「だが、悲しんではいけないはずがない。―――― 頼むから、」



「頼むから、そんな顔をしないでくれないか」



呻くように言われて、腕に力がこもる。

そしてアリアは初めて、自分が泣かないように必死で努力していたことを自覚した。だって、泣いてはいけない。泣くわけにはいかない。生きなければならなかった。哀しみに囚われることなく、生きなければならなかった。

「我慢しなくていい。泣けばいい。そんな顔をされては、私はどうすればよいのか分からなくなる」

でも、本当は。

本当は泣きたかった。慟哭して、地面に伏せて、拳を握りしめて。

何もかも無くした哀しみを、吐き出したかった。

血を吐くような痛みを。

それを許して欲しかった。


「っ……う……」


だから今だけ。


薄暗い王宮の裏庭は、城の影で輪郭が曖昧だ。

自分達の姿も、ぼんやり霞んでいることだろう。

(いまだけ、だから)

この人の腕の中、薄れゆく紫霄に包まれて。


泣くことを、どうか許して。


声を押し殺すように、けれど感情を押し出すようにアリアは泣く。

その声を外にもらさまいとするように、スカイサードは自らの胸に彼女を抱く。

強く、強く。

「……っ、スカイサードさまっ……! ごめんなさい、今だけ、もう、泣きませんから……っ」

「セインでいい」

「、セイン、さま………!」

咲き誇る花を、その涙が潤していく。



二人を隠すように、ちらちらと空には白い結晶が舞う。


まるでそれは、咲いた花を慈しむように。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ