紫霄に舞う
花は芽吹き、やがて咲く。
確かに咲いたそれに気づいたとき、人はそれを手折るのだろうか。
それとも、枯れるに任せるのだろうか。
―――― 誇らしく咲いた花に、名前はまだない。
見上げた空は、今日も青い。
この間まで湿り気を帯びた風が頬を撫でていたのに、身体を包む空気は冷然としたものに変わりつつあった。
仕事柄、この季節は嫌いではない。冬ではなく、その前の季節だ。女官たる者、きびきびと動き、甲斐甲斐しく働くのが美徳とされているのだ。相当量の仕事は、こういった涼しい季節の方がやりやすい。
「あ、いい風……」
さらりと吹いた涼風に目を細めて、アリアは窓辺を離れた。豪奢な廊下と、同様に贅を凝らした扉と窓枠。王宮は今日も変わらず壮観である。
自分の付き添いの対象である二の姫の自室は、その廊下を進んだ先にある。
すれ違う先輩女官や王族に会釈をしつつ、目指す部屋へと優雅に歩む。
歩き方、話し方、笑い方。全てが型どおりのこの世界に、真実の青空などあるのだろうかとふと思う。もう一度ずらりと並ぶ窓を眺めるが、それらはまるで豪華な額に入った何枚もの絵画のようだった。
この絵画が、一番綺麗に、一番印象深く見える瞬間を、アリアは知っている。
朝焼けの、アメジストを溶かしたその色が。
夜明けの光と混ざりあった、その紫霄が。
何よりも美しいことを、知っている。
「……仕事、いかなきゃ」
もう一度だけ切り取られた空を見つめて、アリアは前を向き直った。
憂いを帯びた少女の顔から、宮廷女官の顔に戻ったあとで。
「姫、アリアです。失礼いたします」
扉をノックし、柔らかく微笑む。
アリアが仕えているのは、現国王と王妃の間に生まれた二番目の姫だ。
名をフレイアといい、美しい金の髪と碧眼、そしてなによりその美貌は、諸国で有名になりつつある。少し高慢だが、十七という年齢にも関わらず、大人びた少女だった。
「アリア。丁度良かったわ、お茶の時間にしようと思っていたの。紅茶を淹れて頂ける?」
「かしこまりました」
年が同じということでアリアが彼女付けの侍女になったのは、もう随分前のことになる。
「フレイア様、今日はどの茶葉になさいますか」
「そうね……。アリアに任せるわ」
「はい」
頷いて缶を手にする。今日は良い天気だから、すっきりとしたミント系のものがいいだろう。でも少し肌寒いようだから、熱いものにしよう。
考えながら茶器を用意していると、ふいにフレイアが口を開いた。
「そうそう、アリア。あなたがセイン・スカイサードのお知り合いだという噂はほんとう?」
「……、はい?」
一瞬、呼吸が止まった。
動揺を出さぬように努めて、フレイアを振り返る。
「突然どうなさったのですか。スカイサード様、というのはあの、騎士隊長の?」
「そうよ。それ以外にはいないでしょう? ねえ、どうなの?」
自分を見つめてくる王女の目は、どこか深いところにちらちらと炎を揺らめかせている。
何なのだろう。自分に、何を訊きたいのか。
唐突な不安感に襲われながら、アリアは努めて冷静に振る舞った。気づいてはいけない。
この想いを、表に出すなんてできない。
「知り合い、と仰られましても……。どうしてわたくしがそのような」
「だってセイン本人が言っていたわ」
「………え」
聞き慣れないセイン、という単語に気を取られている間に、何か重要なことを聞き逃してしまった気がする。
ああ、あの人の名前だわと思うと同時に、その名を呼び捨てられる主を少し羨ましく思う。
けれど、今。……自分のことを?
(あのひと、が)
「スカイサード隊長がですか?」
「そう。以前お逢いしてお話したことがあるのだけれど。侍女の話で貴女の名前を出したときに」
――― アリア・フェイドでしたら自分の知人にございます。姫付きの侍女だったのですね――――
容姿端麗として通る宮廷第一騎士隊長、セイン・スカイサード。
流れる黒髪と、サファイアの瞳は、多くの女性を魅了するという。
アリアの目の前にいて、どこか威圧感を醸し出すこの姫も、きっとその一人なのだろう。
その端麗な男が美しいと評判の自分を目の前に、自分以外の女のことを気に掛けたのだ。
面白いわけがない。
けれど彼女が思っているような関係ではないのだ、自分達は。
この王宮に、この紫霄に、自由などない。
『今度は、ぶつからぬようにな』
掛けられた言葉、ゆるい苦笑。
細められたアメジストに映る、自分の姿。
軽く頭に載せられた手が、何よりも優しかった。
「アリア?」
訝しげに掛けられた声に、アリアは顔を上げる。
そしていつものように、柔らかく、完璧に、ほほえんだ。
「……はい、存じ上げてはおります。けれど、一度お話しただけですわ。兄が知り合いでしたので……」
「あら、そうなの?」
「はい。さ、フレイア様。お茶が入りました。どうぞこちらへ」
「ありがとう。すこしお腹が空いたのだけれど、何かあるかしら」
「そうでございますね、夕餉までお時間がありますし……わたくしは下がりますが、厨房に申しつけておきますわね」
そう、王宮においては一度しか話したことはない。
雪の降る幼い日、アリアはスカイサードに命を救われた。王宮で再会したのは偶然だ。
フレイアの元を辞して、アリアは廊下を進む。厨房に菓子を届けるように伝え、踵を返す。
西日が射し込んで、目の前に一枚フィルターが掛かったかのように視界が暗い。
ゆるやかな冬の気配に、アリアはふと息をついた。
冬は、嫌いだ。
あの白く黒く、赤い日を思い出してしまう。記憶との邂逅と共に思い出すのは、兄と両親、それから――――。
(だめだわ)
あの温もりを、忘れられないなんて。
伝えてはならない想いに身を焦がして、自分に嘘をついて。いいことなんてひとつもないけれど、だけど彼は第一騎士隊長だ。自分との身分は、雲泥の差。
会いたくなかった。
けれど、会いたかった。
一度だけ呼ばれた名前が愛しくて、愛しくて。
「………アリア?」
そう、こんなふうに。
「………え?」
思わず立ち止まり、アリアは辺りを見回した。今、確かに聞こえた。聞き間違えるはずがない。聞き慣れない声、けれど忘れはしない声が。
(わたしの名前……)
「どうした、顔色が優れないが」
「あ……」
ざく、と地面を踏みしめる皮の軍靴。
首筋で切られた黒髪が、風でさらりと揺れる。
同じ漆黒の軍服、黒一色の中で唯一映える深い紫の瞳。
「スカイサード様」
「久方ぶりだな、息災か」
「あ、はい。そちらもお元気そうで、なによりです」
回廊に差し掛かり、兵舎もすぐ傍である場所だ。厨房は奥にあり、そこに行くには否応なしに通らなければならない道。まさか、逢ってしまうとは思わなかったけれど。
そう思いながら、そっとその無表情な容貌を見上げた。
「鍛錬中でございますか?」
「ああ、今し方終わらせた。こう日が陰っては士気が落ちて敵わない」
ふ、と苦笑されて、無意識に心臓が跳ねた。
「二の姫の侍女だったのだな。……色々と大変な御方だと聞いているが」
「あ、いえ、ですが」
フレイアは、美しいが使用人達の評判はあまり良くはない。高慢な気質のせいもあり、その時に無茶な命令のせいもある。
けれど、とアリアは思う。
「フレイア様はきっと……お寂しいのでしょう」
「寂しい?」
「はい。一の姫様を王妃様は特に可愛がられておりますから……ですから、二の姫であられるフレイア様は」
放って置かれる子供の気持ちなど分からないが、一人の寂しさは知っている。
「……そうか」
「はい。それにわたしも、一人ですから」
だから、出来る限りの願いは叶えてあげたい。
出来る限り、傍にいて、お世話をして、お話相手になれればいい。
「そういえば……お前は、幾つになる? いや、女性に歳を訊くものではないか」
唐突な質問に、アリアは首を傾げた。それからにこりと笑う。……作り笑いではなかった。
そんなことを気にする目の前の青年が、どこか近くに感じられたから。
「ふふ、いいえ。小娘にそのような気遣いは無用ですわ。十七になります」
「十七? あれからもうそんなに経つのか。家族は……」
「いえ、もういません。あの夜で、全部」
俯き、耐える。
時折思い出してしまう鮮明な映像は、随分薄れたようではあるけれど。
そんなアリアの様子に、スカイサードは自分の失言を見つけたようだった。
「すまない、辛いことを。それに、私がもっと早く着いていれば……」
「!」
その言葉と表情に、アリアはばっと顔を上げた。
「いいえ、いいえ…!」
柳眉を歪めた目の前の青年に、アリアは縋るようにして言い募る。
「それは違います、スカイサード様。わたし、本当に感謝しています。助けていただいたこと、感謝しています」
このように後悔させてはいけない。あの記憶は自分が乗り越えなければならないものだ。
「アリア」
「本当です。あの場でわたしが死んでいれば、誰が両親や兄を弔うのです? 家族に送ってもらうことほど、嬉しいことはないのです」
「だが……」
「わたしは、兄を、両親を送れてよかった。他でもない自分が、最期に見送れたことが嬉しかった」
「………」
「兄は、照れ屋な気性でした。両親は、優しかったのです。それを覚えているわたしは、生きております」
「………」
「愛されていたことを、覚えているのです。三人のぶんまでわたしは生きている。生かしてくれたのは貴方なのです」
自分が何を言っているのか分からなくなっていた。
けれど、スカイサードにそんな悲しい顔をしてほしくなかった。
「だから、スカイサード様。わたしは貴方に感謝しています。ありがとうございま………っ」
刹那。
どん、と頬に堅い布の感触がした。
「……あ」
身体に回された腕に力が入って、そのまま頬が押し付けられる。
目の前は漆黒に包まれていた。
抱きしめられていることに気づき、離れようとしたが腕の力は緩まない。
「泣いていい」
「………え」
どくどくと跳ねる鼓動は、きっと伝わっているだろう。
誤魔化しようのない頬の赤みも、気づかれていることだろう。
あんなに、忘れようとした気持ちなのに。気づかない振りをしてきたのに。
どうして、どうして。
「わかっている。アリアにも、私にも、非などない。あの夜のことは、もう過去だ」
「……スカイサード様」
「だが、悲しんではいけないはずがない。―――― 頼むから、」
「頼むから、そんな顔をしないでくれないか」
呻くように言われて、腕に力がこもる。
そしてアリアは初めて、自分が泣かないように必死で努力していたことを自覚した。だって、泣いてはいけない。泣くわけにはいかない。生きなければならなかった。哀しみに囚われることなく、生きなければならなかった。
「我慢しなくていい。泣けばいい。そんな顔をされては、私はどうすればよいのか分からなくなる」
でも、本当は。
本当は泣きたかった。慟哭して、地面に伏せて、拳を握りしめて。
何もかも無くした哀しみを、吐き出したかった。
血を吐くような痛みを。
それを許して欲しかった。
「っ……う……」
だから今だけ。
薄暗い王宮の裏庭は、城の影で輪郭が曖昧だ。
自分達の姿も、ぼんやり霞んでいることだろう。
(いまだけ、だから)
この人の腕の中、薄れゆく紫霄に包まれて。
泣くことを、どうか許して。
声を押し殺すように、けれど感情を押し出すようにアリアは泣く。
その声を外にもらさまいとするように、スカイサードは自らの胸に彼女を抱く。
強く、強く。
「……っ、スカイサードさまっ……! ごめんなさい、今だけ、もう、泣きませんから……っ」
「セインでいい」
「、セイン、さま………!」
咲き誇る花を、その涙が潤していく。
二人を隠すように、ちらちらと空には白い結晶が舞う。
まるでそれは、咲いた花を慈しむように。