紫霄に咲く
――朝の匂いと、色が好きだった。
豪奢な回廊から視線を投げると、広がるのは無駄なくらいに広い庭園。咲き誇るのは大輪の薔薇や、名前も知らないような花々。けれどもどれも酷く可憐だ。選りすぐった庭師によって手入れされた至高のそれは、きっとこの国のどれよりも美しい。
その中に立って映えるのは、きっと皇族や貴族。煌びやかな衣装を纏った、高貴な人間だ。自分とは縁のない世界だとぼんやり思うが、大して憧憬や嫉妬が有るわけでもない。社交界は苦手だし、そもそもそんな身分でもないし。自分は一介の女官に過ぎない。アリアはひとりごちて、きらきらと燐光を放つ世界から視線を剥がした。
抱えていた洗濯物を抱え直すと、目的の場所へと再び歩みを進める。
そういえば、早朝仕事を終えた後に部屋に来るようにと、上司に言われていたのだ。
宮廷内で走ることは緊急の時以外は厳禁だけれど、それでも少しばかり気は急いていた。
だからなるべく自然に見えるように、大急ぎで角を曲がったその瞬間。
「っ!」
どん、と大きな衝撃が彼女を襲った。頭がくらくらして、思わずその場に蹲る。
「いたっ……!」
ついた両手で身体を支えつつ、謝罪をしなければと慌てた。
結構な勢いでぶつかってしまったのだ。相手に怪我でもさせていたら、もしも高位の方だったりしたら。
ざっと顔から血の気が引き、真っ青になる。怖くて顔を上げることが出来ない。けれども、いつまでもそうしているわけにも行かないのが現実である。
(あ、謝らなきゃ……!)
しかしその為に顔を上げた時には、相手はもう自分と同じ目線に屈んでいた。
「え………」
涼やかな目元は伏せられていて、さらりと落ちる黒髪がそれを覆っている。
きっちりと閉められた軍服の襟元にある、その小さな紋章。それが表す階級の意味。
ふと見たその手元にある、今まで自分が抱えていた洗濯物。
「え、え、え」
もしかして、いや、もしかしなくても。
相手の正体に勘づいてしまうと、言葉を紡ぐことすら困難になってしまう。
狼狽している間に、男は洗濯物を全て拾い上げ、立ち上がっていた。
「っ、スカイサード様……! 申し訳ございません!」
やっとのことでそれだけを絞り出し、顔を上げる。
漆黒に染まった、長身の騎士。紋章の示す、宮廷第一騎士隊のトップ、つまり隊長の地位。ただしアリアに関して言えば、それだけの認識ではない。以前――まだ幼い頃、夜盗から救って貰った経験があった。
しかし宮廷第一騎士隊と言えば、軍の中でも頂点に近い所に君臨するエリートの集まりだ。
爵位などなくとも、貴族にも値するほどに高貴な存在。
その、隊長に頭から突っ込み、あまつさえ洗濯物を手ずから拾わせた。
知っていた。自分の間抜けさなんて。
けれどなんだ、この失態は。
「……おい」
どうしようどうしようどうしよう。ここはやはり平伏して謝り倒すべきなのか。
「……おい」
ああでも帯剣なさっているし、もしかしたらわたしはこの場で、いえいえそんなバカな。
「聞いているのか、女官」
「ははははいっ!」
びくっと肩を上げて、アリアは再度、恐る恐る視線を上げた。
男――セイン・スカイサードは、宮廷の騎士たちを若くして統率するエリート中のエリートである。長身に、整った容貌は、他国の王女すら釘付けにすると評判だ。さらりと流れるぬばたまの黒髪と、それに映える深いアメジストの瞳。普段は何事もなく、波のない水面のように深いその瞳が笑みに細められる瞬間を、アリアは知っている。
(……それは、とてもとても)
「――何を急いでいるのかは知らないが、もう少し落ち着いて、前を見て歩け」
掛けられた声に、過去に飛びかけていた思考が引き戻された。
「は、はい。申し訳御座いません、スカイサード隊長」
「それで?」
「は」
それで、とは。首を傾げることで疑問を示すと、スカイサードは呆れることもなく、再び繰り返した。低音が耳に心地いい。
「だから、どこへ向かっていたのか、と聞いている」
「あ、はい。あの、ランドリールームへ……」
「わかった。私が運んでおこう」
「へ!?」
間抜けな返事を間抜けな声と共に発すと、スカイサードはくるりと背を向けて歩き出した。アリアは慌ててその後を追うが、なにぶんその、何というか、コンパスの差が。
「お待ちくださいませ! 貴方様のような方にそのような汚れ物を運ばせるわけには参りません!」
「構わない。急いでいるのだろう、そちらの用事を済ませるといい」
「……いいえ、スカイサード様」
礼儀と作法を取りあえずそこに置き去りにすると、アリアは小走りで彼に近づき、前に回り込んだ。背丈の違いのぶんだけ、視線をぐっと引き上げる。
「わたしの仕事でございます。お譲りするわけには参りません」
怯まないように、眼に力を入れて相手を見据える。自分の任された仕事を、他人に、しかも上官にさせるなど言語道断だ。アリアはそのあたり、責任感が強いぶん、どうにも頑固なところがあった。
実際は、その上官に向かって喧嘩を売るような真似をしていることは自覚していないが。
黙ったまま動こうとしないアリアをしばし眺めると、スカイサードは口端を上げた。
無表情が柔らかく緩む瞬間に、アリアは知らず息を呑んだ。以前見たことがあるにしろ、慣れるものではない。
「……名は?」
「は? わたしの、でございますか」
「そうだ」
突然の問いに怪訝そうに眉を顰め、しかしアリアは訊かれた問いに答えた。
「アリア・フェイドと申します」
「アリア? まさか……。いや、やはり……、あの時の娘、か?」
あの時、と言われて、少女はハッと目を見開いた。紫瞳と視線が合う。
だって、まさか。
雪の、深い日。
両親と、兄が夜盗に殺された。
深夜だった。朔の夜で、しっとりとした闇が世界に落ちているかのように感じたのを覚えている。
歳の離れた兄は軍隊に勤めていた。
若いながらも剣の道に長けていて、将来有望株として上に目を掛けられていたと聞く。伝聞形なのは、本人は決してそういったことを口に出そうとしなかったからだ。謙虚だと人は言うが、けれどアリアは知っていた。本当はものすごく、照れ屋な兄だった。誉められるたびに俯いては照れていた兄の顔を知るのは、それよりも小さい視線を持っていた妹だけだった。
そんな兄が、大好きだった。
父が、母が、大好きだった。
けれども白くて黒い夜、それは唐突に彼女の目の前から全てを奪ったのだ。
スカイサードは彼の上官として、その日家を訪ねてきた。
訪問には非常識な時間であったが、火急の用だったのか、早馬を飛ばしてアリアの家を訪れた。そして感じた、異様な静けさと僅かな鉄の匂い。異変に気付いてスカイサードが家に駆け込んだ時、家の中は真紅に染まっていたという。兄に庇われたおかげで唯一逃げおおせ、家中を駆け回っていたアリアも夜盗に見つかり、殺される寸前だった。
あと数瞬遅ければ、きっと自分もあの刃の錆になっていたのだろう、と思う。
騎士の三歩と一閃で、少女は救われた。
『怪我は負っていないか? ……もう、大丈夫だ』
その微笑みと存外に柔らかい声色は、蹲ったままの少女に何を思わせたのか。
鮮やかな剣の軌跡とアメジストの瞳だけを少女に残して、月日は流れた。
「……覚えて、いらっしゃったのですか」
ぽつりと落ちた言葉は、思いの外重かった。
重力に逆らわずに落下して、融けて消える。俯いてしまった少女を、スカイサードは無感情に見えるアメジストの瞳で見下ろした。忘れようにも忘れられない。先ほど自分を睨んだ瞳で、まさかとは思った。だから名を聞いた。
あの雪の日に、凶刃を構えた敵の目を、幼いながらも怯えと共に見据えていたそれと同じに思えたから。
納得したように、スカイサードは息をついた。それから自らが抱えていたアリアの「仕事」を、無言のままで彼女に手渡す。
「あ……」
「失礼なことをしたこと、謝罪する。仕事を奪うのは、それに誇りを持つ者への侮辱に値することを失念していた」
腰を折られてしまうと、アリアは今まで沈んでいた空気さえ振り払って、慌てて首を振った。
「い、いえ! ご好意で仰られたことは存じております、こちらこそ度重なるご無礼を、お許しください」
腕一杯に洗濯物を抱えたまま一礼して、アリアは踵を返した。
(だって)
これ以上、見つめていられない。溢れて、止まらなくなってしまいそうで。
気付いてしまった、閉じ込めた想いが。
(もう、遅いのかも知れないけれど)
もしかすると、あの雪の日に、もう囚われていたのかも知れない。
それでも、伝えることなどできないのだから。
それだけの身分差が、スカイサードとの間にはある。
「アリア」
だから、名を呼ばれても、すぐには反応できないでいた。
その声で、まさか自分の名前を呼ばれる日が来るなんて。
「アリア?」
「……は、い」
そうして、再び振り返る。
「今度は、ぶつからぬようにな」
苦笑と共に降ってきた言葉には、同じように半分笑っているかのような色が含まれていて。
「……はい」
熱に浮かされたようにようやく返した返事に答えるかのように、ふわりと頭を撫でられる。
大きな手。おぼろげに覚えている父のものとも、兄のものともちがう、温かい手。
あの夜と同じように、やさしいそれ。
今までよくがんばったなと、そう言ってくれているのだろうか。
それにどうしようもなく泣きそうになるのを我慢して、会釈をする。
踵を返して今度こそランドリールームへ歩き出し、彼の姿が視界から消えた瞬間。
「……だめだわ…」
アリアはその場で立ち止まり、赤く染まった顔を隠すようにして蹲る。
自分が囚われてしまっていることに、気付かないわけにはいかなかった。
ああ、けれども。
言えない。
言ってはならない。
嫌いだなんて嘘はつけないから、だから、その想いは表には出さない。
宮廷の隅、大きく取られた窓から見える、朝焼けの空。
アメジストを溶かして流し込んだかのような高貴なその色が、アリアは好きだった。
きっとこれからもそれは、彼女の一番で有り続ける。
決して叶わないものであったとしても。
一人の、アメジストの瞳を持った精悍な騎士は立ち尽くしていた。
片手で口元を覆って俯き、目を閉じると、自分の立場と先ほどの少女の立場とが頭を過ぎる。
「……だめだ」
呟いて彼女が消えた廊下の角をしばし見つめると、男はざっと黒衣を翻して兵舎に向かって歩き出した。
自分を見つめる、怯える瞳の奥に見え隠れする強い意志の光は、何を射抜いたのか。
分かってはいたけれど、それでも。
お互いの間に確かに咲いたそれすら、紫霄の内に昇華する。