SECT.9 たびだちの出会い
店の前にはやたらと豪華な馬車が止まっていた。こんなにもきれいで大きな馬車をこの街で見たことがない。御者もまったく面識のないヒトだった。
「さあ、行きましょう」
ねえちゃんに支えられて階段を上る。
中に入ると、先客がいた。
こちらも見たことのないヒトだ。
自分と同じ漆黒の髪は腰近くまであるストレートだったが、顔を見ると端正な男性の顔つきだった。不機嫌だからかもともとそうなのか分からないが、睨むような鋭い視線がこちらに向けられていた。その濃い紫の瞳には何の感情も映っていないように見えた。
闇の色をしたマントを羽織っていて、それが似合うのが少しだけ怖いなと思った。
「あ……えーと、誰?」
「忘れてたわ」
後ろから馬車に乗り込んだねえちゃんが答えた。
「私の知人のアレイスター=W=クロウリー。今回王都まで一緒に行くのよ」
「はじめまして、クロウリーさん。おれはラックといいます。よろしく」
「……よろしく」
少し会釈しただけでそれ以上こちらを向いてはくれなかった。でも、見た目どおりのバリトンの声は耳に心地よかった。
だから、その黒いヒトの隣に腰掛けた。
ねえちゃんは向かいに座る。
小さな窓をこんこん、と叩いて御者に合図を送った。
壁を隔てて馬の嘶きが聞こえて、走り出すとき独特の圧迫感が一瞬自分の体を押さえつける。
「さて、何から話そうかしら……説明は手伝ってくれるのよね、アレイ?」
「ん、まあ、それなりに」
仏頂面はどうやら元々らしい。
見た目以外は、例えばこの黒いヒトが纏うオーラや雰囲気はぜんぜん怖くなかった。
「それじゃラック、今まであなたに教えていなかったこの国のこと、グリモワール王国のことから少しずつ話していくわ」
「グリモワール王国?」
「そうよ。あなたや私が今住んでいるこの土地を治めているのは、ゲーティア=ゼデキヤ=グリモワール様。グリモワール王国第22代ゼデキヤ王という方なの」
「ゼデキヤ王」
「そう。私たちが住んでいたカトランジェの街や、隣のジャスパグ、今向かっている王都ユダ・イスコキュートスもそうよ。みんなゼデキヤ王が支配してらっしゃるの」
「王都ユダ・イスコキュートス」
難しい単語は繰り返す。何度も口に出して覚えるために。
「ユダというのはグリモワール初代国王の名前よ。ユダ=ダビデ=グリモワール。でも、ダビデ王と呼ばれることのほうが多いわね」
「ユダ=ダビデ=グリモワール」
グリモワール王国。ゼデキヤ国王、初代国王ユダ=ダビデ=グリモワール。首都ユダ・イスコキュートス。
難しい単語ばかりだ。
カフェのマスターの名前ですらうまく覚えられなくてずっとマスターと呼んでいたのに。
うーん、ちょっと覚えるのは難しそうだ。
眉を寄せたのを見てねえちゃんが朗らかに笑った。
「覚えなくても大丈夫よ、ラック」
「ほんと?」
「できれば、今の王様の名前だけ覚えておきなさい」
「えーと、ゼデキヤ王。ナントカゼデキヤ=グリモワール」
「それで十分だわ。それ以外はなんとなく覚えていればいいわよ。これからどんどん難しい話をするから」
「分かった」
よかった。覚えなくてもいいんだ。
そう思って思わず顔を崩すと、黒いヒトはあきれたようにため息をついた。
「何だ、こいつただの阿呆か」
「むっ!なんだよう」
さすがにカチンと来て唇を尖らせた。
黒いヒトはこちらを向きもせず視線を床に落としたまま静かなバリトンの声で続ける。
「事実を言ったまでだ」
「アレイ、やめなさい。ラックも落ち着いて」
「だって、ねえちゃん!」
「年は知らんが、どう見ても20近いだろう。精神年齢はいったいいくつだ? 頭の年齢も調べたほうがいいぞ。信じられんくらいに役に立たん頭だろうな」
「おれが阿呆なんて、そんなこと自分だって分かってるさ!」
「そうか、分かってるか。分かっててそれじゃあお前はもう救いようのない馬鹿だな」
「何だと!」
分かっていることとはいえ、なぜかこの黒いヒトに言われると腹が立つ。言い方の問題なんだろうか、カフェのマスターに同じことを言われてもまったく平気だったのに。
眉間にしわを寄せて、唇を尖らせてその黒いヒトを睨んだ。
でも、黒いヒトは紫色の瞳で一瞥しただけで視線を窓の外に向けた。
窓の外では見慣れた街の景色が見たことのない速さで遠ざかっていた。
「もうやめなさい、アレイ。……ラック、続きを話すわよ?」
「うん、いいよ」
黒いヒトの声は好きだけど、この闇色のマントと口の悪さはあんまり好きになれそうにないや。
「今わたしたちが向かっているのは王都ユダ・イスコキュートス。王都ユダと呼ばれることのほうが多いわ。さっきも言ったけれど馬車で5日はかかるの」
「遠いね」
「そうよ、遠いの。一度行ってしまったらきっと、もうあの街に戻れないわ」
「えっ?!」
唐突なねえちゃんの言葉に思わず眼を丸くした。
「どういうこと?!」
「一度王都に行ってしまえば、私は情報屋をやめて、元の職に戻ることになるわ。そうしたらもうあの街には戻らない」
「情報屋やめるの? そしたらおれはどうしたらいいんだ?」
「あなたも王都で新しい地位と身分をもらうことになるでしょう。いいえ、新しい、というよりはあなたが記憶をなくす前にいた場所に戻るの」
「うそだ!」
思わず馬車の中で立ち上がっていた。
がたがたと馬車が揺れる音だけが響いた。
「もう街に戻らないの? マスターにも会えないの? ちびマスターも? もう街を探索しなくてもいいの……?」
「そうよ」
「そんなの……」
嫌だ、と言おうとして思いとどまった。
自分の過去を知りたいといったのは他でもない自分自身。そのために何かを失うとしても――
「ラック、何かを手に入れるとき人は代わりに何かを失うのよ」
ねえちゃんの瞳が王様の光を灯した。
「もし戻りたいというのなら、まだ戻れるわ……あなた一人あの街で生き抜いていくと決心して、実際生きていくことが出来るのなら」
「ねえちゃんは?」
「もしあなたが戻ると言っても、私は王都に行くわ。それはもう覆せないことよ」
「っ!」
どうしようもない感情が胸の中を渦巻いた。
どっちも、嫌だ。本当はずっとあの街で、いつもみたいに探索者として仕事をこなして、ねえちゃんに朝ごはんを作ってもらって、マスターの奥さんが作るケーキを食べて……
昨日は戻れなくていいって言ったのに、実際もう街に戻れないって聞いたらその決心は簡単に揺らいでしまった。
分かっている。このままじゃいけないって分かっていた。
前に進まなくちゃ、今まで知らずにいたことを知ろうとしなくちゃ。
分かっていたはずなのに。
もう戻らないって決心したはずなのに……!
「甘いな、お前。頭の中身も考え方もガキだ」
「うるさいっ!」
闇色のマントのヒトを一喝して、どっかといすに座り込んだ。
今は視線を上げられなかった。
ふるふると震えるひざの上の右手を見つめて黙り込んでいた。
「これも嫌、あれも嫌なんて言っててどうするつもりだ?お前が望むように進む世界なんて、そんなものどこにも存在しないんだよ」
「……」
「欲しいもの全部手に入れられると思うなよ。無理に決まっている。だから、求めるものをひとつに絞れ。お前が一番大切だと思うものを選べ。いったい今何を求めるのか、それをさっさと決めてしまえ。決めたならもう迷うな。一番大切なものだけを命がけで追い求めろ」
バリトンの声は耳にすんなりと入ってくる。
一番大切なもの。
いま、きっとそれを選ぶ時なんだ。
これまではずっと同じ毎日を繰り返していた。でも、銀髪のヒトに出会って、過去を知りたいと思ってしまった。
「お前が、望むことは何だ?」
とても難しい問いだった。
本当はねえちゃんとずっとあの街で暮らしたい。でも、それは出来ないんだと言う。
あの街で一人で暮らしたい?いや、きっとそれは違う。ねえちゃんがいるからあの街にいたかっただけなんだ。
過去を知りたい?いや、知りたいんじゃなくて知らなくちゃいけないという強迫観念が心の片隅にあるだけだ。
それじゃあ、自分が本当に望んでいることはいったい何なんだ?
銀髪のヒトに会いたい。それは否定しない。あの強烈な群青の瞳に一瞬で魅了されてしまった。もう一度会えるのなら会いたい。しかしそれは一番大切なことじゃない。もし近くにいると言われたら迷わず飛んでいくけれど、自分の全部をかけて会いに行きたいわけじゃない。
あの街に戻りたいのはなぜ?過去を知りたいと思ったきっかけは?
銀色のヒトに殺されそうになった時、いったい自分は何を思った……?
「おれは……」
心を決めた。
一番大切なのは。
「ねえちゃんと一緒にいたい」
真直ぐに、王様の光を灯した金色の瞳を見つめた。
「3年前に拾われてから、名前をくれたのも、育ててくれたのも全部ねえちゃんだ。おれの世界はねえちゃんが創ってくれたんだ」
自分が持つものは他にない。
存在するのはねえちゃんとの繋がりだけだ。
「街にいたかったのはねえちゃんとの生活がしたかったからだ。過去が知りたいと思ったのは、知らずにいていつか過去が分った時にねえちゃんと裂かれるのが嫌だと思ったからだ。おれの世界は全部ねえちゃんと一緒にあるんだ。だから、おれはねえちゃんと行く。もしその行き先が過去なら過去を求める。王都に行くならついていく。街にもう戻らないっていうんなら、おれももう戻らない!」
「ラック……」
「やっぱりガキだな」
「ねえちゃん、おれ付いて行くよ。ねえちゃんが行くんなら世界の果てにだって行く。おれの世界はそこにしかない」
こうして答えが出た瞬間、今度こそもう迷わないと決めた。
窓の外では見慣れた街でなく、既に知らない風景が飛び退っていた。
何も知らない自分は幸せだった。
でも、そのままじゃ自分は納得しなかったろう。だから、一歩先に進んだ。最後に背中を押したのは銀髪のヒトとの出会いだった。
知らなくちゃいけない。自分の中で何かがそう叫ぶから。
一番大切なこと――それはねえちゃんの隣にいること。それさえ分かってしまえば、他のものを捨てるのは簡単だった。
それまでの生活にサヨナラを告げた。
大きな大きな運命の渦に巻き込まれて、それはいつしかねえちゃんと自分を裂いていく……そんなこと知る由もなかった。
だから、この時が一番幸福だったのかもしれない。
隣にねえちゃんがいて、それが永久に続くと思っていたこの時が……