SECT.27 ベアトリーチェ=アリギエリ
しばらくして、知らない女のヒトがやってきた。ねえちゃんよりも年上だろう。細かいしわが見え隠れしている。
それでもやさしげなブラウンの瞳とふわふわしたこげ茶の髪はとても印象深かった。
「初めまして、新しいレメゲトン」
「……だあれ?」
「私はこの国のレメゲトンの一人、ベアトリーチェ=アリギエリです。ファウスト女伯爵やクロウリー伯爵はまだ怪我から回復なさっていらっしゃらないので私が参りました」
「二人ともだいじょうぶなの?」
「はい、命に別状はありません」
「よかった」
ほっとため息をついた。それだけ分かればもう心配事は何もない。
「少しお尋ねしてよろしいですか?」
「うん、いいよ」
「あなたは、その……コインをお使いになったのでしょうか」
「そうだよ。殺戮と滅びの悪魔だって本人が言ってた」
「……それはロストコインの中で最も扱いの難しいとされる滅びのコインです。稀代の天文学者ゲーティア=グリフィスが使役して以来誰の召還にも応じませんでした。だから、ヴァイヤー老師もあなたがそのコインを使うことを許さなかったはずです」
「そうだね。でも、おれこの悪魔さんとはずっと昔に契約してたんだ」
契約して、名を交換した。
自分は記憶から無くなってしまったがあの悪魔さんはちゃんと助けてくれた。
「銀髪のヒトが天使さんを召還して、ねえちゃんとアレイさんは悪魔さんを呼び出せなくて、おれもアガレスさんに助けを求めたけど無理だった。だから、このコインを使ったんだ」
「何という危険なことを」
「うん、ごめん、ぜんぜん知らなかったんだ。どんなコインなのか、どんな悪魔さんなのか」
怖かった。終始子供のような口調で子供のような声で話してはいたが、その裏に隠された狂気は隠しきれていなかった。
あの真っ赤に燃える瞳も闇の毛並みも背筋が凍るほど怖かった。
何より、銀髪のヒトの喉を噛み切った瞬間の恐怖は拭い去れるものではない。
今思い出してもぞっとした。
全く感知できない速度で必殺の凶器を閃かせる殺戮の悪魔。
「だいじょうぶ、そんな頻繁に使えないよ……左腕もあげちゃったし。」
と言って、左手に感覚を集中させてみて、驚いた。
左腕の感覚があった。
そんなばかな。
銀髪のヒトに切られて完全に動かなくなり、ラースに砕かれて食べられてしまったのに。
あるはずがない。
「おれの左手……どうなってる?」
「ご自分でご覧ください。」
ゆっくりと左手をシーツの下から引き寄せる。
恐る恐る出した左手は今まで自分が使っていたものと同じに見えた。
「何で左手が戻ってるんだ?」
が、すぐに気づいた。
「!」
左手の甲に滅びのコインが埋め込まれている。
その周りだけ血管が浮かび上がって赤黒く変色していた。
手を握ったり開いたりしてみたが痛みはない。ひねったりもしてみたが、動かすのに何の不都合もないようだ。
おそらくラースが食べてしまった左手の代わりに何か不思議な力で付けておいてくれたのだろう。
「ラース、ありがとう。」
ラースにしてみれば何のことはない、次に体を借りる時に左腕がないと不都合だと思ったくらいのものだろう。
でも、左腕があるのとないのでは自分にとって雲泥の差だ。
完全な左腕を見たら元気がわいてきた。
その感触を確かめるように左腕を支えに起き上がり、ベッドの端に腰掛けた。
「えーと、ベアトリーチェさん?」
「はい」
「ねえちゃんとアレイさんはどこにいるの?会いたい」
「もう大丈夫なのですか?」
「うん、平気だ」
服は寝巻きのようなものに着替えさせられていた。当たり前だ、着ていた服は血で真っ赤に染まってしまっただろう。
足を地面についてみると意外なほど簡単に立ち上がれた。
そうだ。自分のダメージは左腕だけだったはずだから。
「ご案内いたします」
「ありがとう」
ベアトリーチェさんに続いて部屋を出て、長い廊下を歩き出した。
「紹介がまだだったね。おれはラック=グリフィス。今度新しくレメゲトンになったんだ。今使えるのは、滅びのコインを除いたら第2番目の悪魔アガレスさんのコインだけ」
「よろしくお願いします、ラック様。私は主に他のレメゲトンの補助を担当します。第10番目の悪魔ブエルはあらゆる怪我や病気を治癒する力を持ちます。第4番目の悪魔サミジーナは死者の魂を呼び出すことができます」
「すごいね!」
「もう一つあるのですが、こちらは契約と言うよりはお友達になった感じです。第56番目の悪魔ゴモリー。とても明るくてお優しい女性の悪魔です」
「へえ!会ってみたいな!」
「彼女は気さくで、人間が大好きな方です。きっと喜びますよ」
ベアトリーチェさんは優しげに微笑んだ。
このヒトが癒しのコインを持つのはとても分かる気がする。