SECT.26 カークリノラース
「くソっ まあイイ 次ハ 逃がサない」
口の周りについた血を舌でなめとって、カークリノラースは満足げに微笑んだ。
あたりの景色はいつしか元の地下牢獄に戻っている。
ねえちゃんとアレイさんが突っ伏しているのを見て、駆け寄りたいという衝動に駆られた。
けれども体はまだ自分の思い通りに動かない。
「約束ドオリ 左ウデ 貰うヨ」
黒い霧は左腕に収束した。
そこからカークリノラースの頭がにゅっと突き出した。
「!」
驚いていると、カークリノラースはそのまま全身を飛び出させた。
改めて見たその姿は、殺戮と滅びの悪魔の異名そのものだった。闇色の毛並みに映える地獄の業火を閉じ込めた炎妖玉が不気味に煌いて、犬歯が飛び出した口には先ほどの血がこびりついている。背の翼はクローセルさんやマルコシアスさんとは違う蝙蝠のような膜の翼だ。
ヒトが見れば思わず震え上がるような姿。左腕をくれ、と言ったのもこの悪魔にとってはかなり妥協したラインなんだろう。
「んジャ いたダキまス」
カークリノラースは擦り寄るように左腕に頭を添えると、つい、と犬歯で持ち上げた。
この後どうなるか分かってたはずなのに目を閉じるのを忘れていた。
カークリノラースは包帯をそのままにして鋭い歯で噛み砕いた。
「ガギリ」
「!」
銀髪のヒトにブレイドで切られたときとは比にならない痛みが貫いた。
「っあああっ!」
我慢しきれずに喉の奥から悲鳴がほとばしる。
目を閉じなかったためにまともに悪魔の食事を目の当たりにしてしまった。
鋭い歯で砕かれた肉の隙間から血が噴出し、牙を真っ赤に染め上げた。悪魔はその肉の合間から見え隠れする白いものまでがりがりと噛み砕いている。
「ぐっ……ああああ……」
骨を砕く音と吹き出る血は目の前で起きている事象が現実であることを告げていた。
痛みで飛びそうな意識を無理やり保った。自分の腕が目の前で砕かれて悪魔の腹に入っていくというのはもう現実味がなさ過ぎて遠い世界の出来事のようだった。
激痛は臨界点を過ぎた後少しずつひいていき、もう何をする気力もなく壁に体をもたれかけた。
「美味シイ ルーク 信じラレナいヨ! 僕 こんな美味シイの 初メテだ!」
肘までを完全に平らげたカークリノラースは興奮したように叫んだ。
名残惜しそうにちぎられたひじの辺りをなめていたようだったがそこにはもう何の感覚もなかった。
頭がぼんやりする。
もうだめだ。
出血が多くてまぶたが落ちてきた。
「ねえ……カークリノラース……」
「なアに?」
「名前長いから……ラースって呼んでいい?」
もう自分がよく分からないことをいっているのも分かっていた。
でも、どうしようも自分を制御できなかった。
痛いのか気持ち悪いのか眠いのかもよく分からなくなってきた。
「ルークは マエも 同じ事言ったヨ」
「そう」
もうだめだ。
眼の端でアレイさんが身じろぎした気がしたんだけど。
ねえちゃんの声が微かに聞こえた気がしたんだけど。
「僕ハ 戻るよ ルーク」
「ありがとう……ラース、助かった……」
微かにラースが微笑んだ気がしたのは、気のせいだったのか知れない。
それからのことはあんまり覚えてない。
ねえちゃんが自分を見て悲鳴を上げて、アレイさんはひどい怪我をしてるにもかかわらず血相を変えて自分を抱えて地下から飛び出した。
じぃ様とか知らないヒトとかがいっぱい飛び出してきて、運ばれて、口や体中についた血を洗い流されて、気がついたらベッドに寝かされていた。
天蓋つきのベッドで天井は見えないが、ずっと上ばかり見上げていた。
自分を殺そうとした銀髪のヒトと天使さん。自分を支配しようとしたヒト。殺戮と滅びの悪魔グラシャ・ラボラス。
いろいろなことが頭の中をめぐっていった。