SECT.25 ルーク
闇の空間の中で、銀髪のヒトとその守護天使だけが光を帯びていた。
「はあ、はあ……」
荒い息を整えて立ち上がる。
脚に力が入らないのを無理やり奮い立たせた。
「ありがとう」
「久シぶりダネ ルーク」
「ルーク? それはおれの名前なのか?」
「何ヲ言ってルんダイ? 君ハそうナ乗ったジャないか」
目の前に下りてきたのは、漆黒の翼を持つ大きな狼だった。
漆黒の毛並みに真っ赤な炎妖玉の瞳が嵌め込まれている。時折除く犬歯はハンターというよりは殺戮者の刃のように感じられた。
「3年前に全部の記憶を失くしたんだ。だから、本当は契約したことも覚えてなかった」
そう言うと、狼の姿の悪魔はぎろりと自分を睨んだ。
その瞬間心臓が凍りそうな恐怖が襲った。炎妖玉の瞳は燃えるような色なのに感情は全く映し出されていなかった。
きっと逆らったら即殺される。動物的勘でそう悟った。
「まさカ 僕の名前モ 忘れたんじゃないダロウね」
怖いという感情を押さえ込んで、とにかく聞いてみる。
「……ごめん、グラシャ・ラボラスじゃないの?」
「違うヨ サイ低だね」
まるで幼い子供のような声でたどたどしく言葉をつむいでいるのは、どうやら喋るときに犬歯が引っかかるかららしい。
怒ったように鼻を鳴らして、偉そうな口調で付け加えた。
「仕方ナイな もうイチド 契約するカイ?」
「お願いします」
「でモ 僕 傷ついタンだけど 名マエを忘レルなんて」
「ごめんなさい!すごく謝るよ。一生懸命思い出すよ。だから……」
「何カ クレル?」
口元の犬歯を大きく覗かせながら、悪魔は微笑んだ。
「何でもあげる。何が欲しい?」
「魂」
狼はきらりと瞳を光らせた。
どきりとした。
「と 思ッタけど ルーク 君ハ お気に入リだカラ」
「おれがあげられるものなら何でもあげるよ! だから、お願い。ねえちゃんとアレイさんを助けて!」
「ヤレやれ 君は 変わってナイな その自己犠セイの精神ガ 好きダヨ そんなコトシていて いつか 身を滅ボス時が来ルト 思うと 楽シミで 仕カタナイね」
そう言って楽しそうに笑った悪魔は、じっと自分の左腕を見つめた。
「ソの左ウデ 死んデルね?」
「……そうだよ。もう動かない」
悪魔の顔が近づいた。
熱い息が感じられて背筋が凍った。
「んジャあ そのウデ 頂戴」
「……いいよ。それでねえちゃんたちを助けてくれるなら」
「交ショウ成立ダ」
グラシャ・ラボラスという悪魔は黒い霧に姿を変えると、自分の左腕にまとわりついた。
そして、真っ黒な刃を持つ剣が自分の左手に出現した。でも、左手は自分の意思どおりに動く気配はなかった。
それでも左手はしっかりと剣を握って、それをぶんと空を切って振りかざした。
「手だけジャ やり辛イナ 体を借リルよ」
声が響いて、黒い霧は全身を包む。
同時に視覚以外はグラシャ・ラボラスに明け渡されたようだ。
目の前の荘厳で綺羅らかな天使の姿に全く怯むこともなくグラシャ・ラボラスは剣を構えた。
背に荘厳な天使を控えた銀髪のヒトは、忌々しげに言葉を吐いた。
「まさかすでに契約していたとは……空間に入ってしまったのは誤算だ。それよりもミカエル、このレメゲトンと知り合いなのか?」
「今は言えぬ ただ 倒さねばならぬ相手だとだけ言っておく」
群青の瞳の天使は悲しみを映した瞳でこちらを見ていた。
「悠長ナ事 言ッテテいいのカ ミカエル 僕を倒シタいのナら メタトろン か サンだるフォンくらイ 連れテ来い」
知らない名前が錯誤している。
きっと自分はもうこの戦いの中には介入できない。
お願い、グラシャ・ラボラス。ねえちゃんたちを守って!
「違うヨ 僕の名マエ……」
そんな声と共に、頭の片隅に微かな声が響いた。
頭の片隅に浮かんだこの言葉はこの悪魔さんの名前なんだろうか。確かに聞き覚えのある名前だ。心のどこかでこの悪魔さんのことを覚えているんだろうか。
「名を呼んデ そしタラ 僕ハ マけナイ」
とても美しい名前だった。
声は出ないから心の中でそっとその悪魔さんの名前を呼んだ。
――カークリノラース
「あリガと」
その瞬間に目の前に銀髪のヒトが迫っていた。
自分が……自分の体を使ってカークリノラースが飛び掛ったのだ。
すごく近くで金属音がする。視覚だけでなく五感全体は自分にあるようだ。
跳ね上げた銀のブレイドの下から腹を狙って黒い剣を突き出せば、銀髪のヒトは間一髪かわして反撃の拳を繰り出してくる。
速度が半端でないから間合いの取り方も普通とぜんぜん違う。
剣の間合いから拳の間合いに入るのが一瞬すぎて自分には判別できない。
二人とも必殺の間合いを取りあぐねているように見えた。一瞬でも隙を見せればどちらかが倒れてどちらかが生き残ることになるだろう。
しかも軽く放っているはずの攻撃が軽くない。一撃一撃がものすごい重さだ。
五感が残っている自分には、攻撃を受ける剣を持つ腕や間一髪かわす足元にすさまじい負荷がかかっているのが分かる。
そして自分の体が限界に近づいていることも。
カークリノラースはいったん距離を置いた。
「器の差だな。読み誤ったろう」
銀髪のヒトがにやりと笑った。
が、カークリノラースも同じように悪魔の笑みを浮かべた。
「読みアヤマったノは そっちダ 僕はもともト 剣士ジャない」
手から黒い剣が消えた。
次の瞬間、目の前が赤く染まっていた。
いったい何が起こったのか分からなかった。
へんな味がした。
どうして匂いじゃなく味なんだろうと一瞬だけ思った。
でもそれはすぐに分かった。
大嫌いな鉄の匂いが鼻をついたから。
「僕ハ サツ戮と滅びの悪魔 グラシャ・ラボラス 武器は 剣ジャない この牙ダケだ」
ぬるりとした感触が口元を覆った。
気持ち悪いのと恐怖とで背筋が凍った。
カークリノラースは口の中に入った血をいくらか吐き出したが、鉄の匂いは取れなかった。
「こん……ばかな……」
銀髪のヒトは首から大量の血を流していた。
カークリノラースが一瞬で懐に飛び込んでその喉元を牙で掻っ切ったのは一目瞭然だった。
「やばい、ミカエル……一旦退くぞ……!」
銀髪のヒトの途切れ途切れの言葉に6枚翼の天使さんは大きく両手を広げた。
「逃がスか!」
カークリノラースは追おうとしたが、6枚翼の天使さんの放つまばゆい光に眼を細めているうちに銀髪のヒトと天使さんは忽然と消えていた。