SECT.24 グラシャ・ラボラス
目の前が真っ赤に染まる。血の匂いがする。
痛い 苦しい 辛い
「たすけ……て……」
床に這い蹲って苦しみから逃れようともがいた。
目の前を何かが通り過ぎる。
暗闇に光るブレイド、むせ返るような血の匂い、全身を襲う痛み、浮かび上がった銀髪のヒトとその背にあるのは――翼。
「いやだあああ!」
何だこれ……何なんだよ!
まぶたの裏をさまざまな光景がフラッシュバックする。流れ落ちる血、真っ赤に染まった自分の手、銀髪の天使、冷たい群青の瞳……
気が遠くなりそうな衝撃が駆け巡っていった。
が、その時、微かに残る理性の中で、誰かが呼ぶ声を聞いた。
「起きろ、くそガキ!」
「……あ……」
フラッシュバックは一瞬で消え去った。
目の前にはまた壊された頑丈な檻と闇の空間が戻ってきた。
「貴様はまた邪魔をするのか」
忌々しげにつぶやかれた低くてよく通る声。
「はあ、はあ、はあ……」
荒い息で何とか上体を起こす。座り込む力は残っていない。後ろの壁にもたれかかった。
目の前には闇色マントが立ちはだかっていた。
アレイさんだ。
もう嫌われたかと思ったのに、どうしていつも助けてくれるんだろう。
銀髪のヒトが右手をすっと宙に掲げると、銀の光でできたブレイドがその先に現れた。
「マルコシアスの加護がない貴様など敵ではない!」
闇色のマントが目の前で翻る。
銀のブレイドとアレイさんの剣が何度も交差しては離れた。金属音が体の震えを誘発する。
でも、見ていれば分かる。
頭上に天使の加護を抱いた銀髪のヒトは明らかに押している。マルコシアスさんがいれば……
「アガレスさん……助けて……」
魔方陣は発動したけれど、アガレスさんは姿を現さなかった。
そうだ。アガレスさんは堕天だと聞いたばかりじゃないか。
フラウロスさんとはまだ契約していない。
アレイさんが少しずつ押されている。決着がつくのは時間の問題だろう。
いやだ。ねえちゃんもアレイさんもいなくなっちゃいやだ。
でもいったいどうしたらいいんだろう。
「死ね!」
「ぐあっ!」
闇色のマントが視界から消えた。
「アレイ、さん……?」
ぼやける視界の中で姿を探すけれど、遠くに飛ばされたのか見当たらない。
「今度こそ貴様一人だ」
群青の瞳が自分を貫いた。
その頭上に輝く天使の瞳も同じ群青だった。
ミカエル。どうして。なぜ……こうなってしまったんだ?
「貴様だけは殺す」
銀髪のヒトがこちらに光のブレイドを向ける。
天使さんはどこか悲しそうな瞳で自分を見下ろした。
どこか憐憫を含んだそのまなざしに、また別の声が自分の喉からこぼれる。
「争うつもりはなかったんだ ミカエル」
声が出ない。自分では体を制御できないみたいだ。
群青の瞳の6枚翼の天使は悲しそうにこちらを見て男性とも女性ともつかぬ美しい声で答えた。
「今更何をおっしゃるのですか 兄さん」
「今なお 戦いを望んではいないのだ」
やめてくれ!おれを支配しないで!
額が焼けるように熱い。
自分が銀髪のヒトに会いたいと願った気持ちはいったいどこから来たんだろう。銀髪のヒトが自分を殺そうとしたエネルギーは一体どこにあったんだろう。
もしかすると、銀髪のヒトに会いたいと思ったのは自分じゃなくてこの声の主なんじゃないか。そして、会いたいヒトはきっと銀髪のヒトじゃなくてこの銀の力を持つ6枚翼の天使だったんじゃないのか。
体に全く力が入らない。
そうだとしたら、このヒトは誰?さっきから自分の内側でこの天使に呼びかけるこのヒトは……?
が、今考えるのはそうじゃない、と意識を切り替える。
そう、願うことはいつだって一つにしなくちゃいけないんだ。アレイさんが言っていた。
だから唯一つだけを願った。
「助けて……」
ねえちゃんとアレイさんだけでいい、おれはどうなってもいいから。このヒトに支配されたっていいんだ。ここで殺されたってかまわないんだ。本当ならあの森の中の教会で一度失くしたはずの命だから。
でも、誰か助けて。
お願いだ。
誰でもいいんだ。
おれを守ろうとしてくれたこの二人だけは助けてくれ。
無常にも銀のブレイドは自分にまっすぐ向けられていた。
「死ね、レメゲトン!」
誰か……!
その時右手に何か当たった。
アガレスさんはこれを『はじまりの前にあるもの』と言った。
じぃ様は『知らなくていい』と言った。ねえちゃんもアレイさんも教えてくれなかった。
銀髪のヒトは『破壊する』と言った。
3年前からずっと一緒だったコイン。最初から微かに熱を帯びていたのが自分の勘違いでないとしたら。
もし自分が|記憶を失くす前すでに契約していた《・・・・・・・・・・・・・・・・》としたら。
お願いだ。
助けてくれ。
誰かの支配に逆らって右手でペンダントのコインを強く握り締めた。
「グラシャ・ラボラス……!」
その瞬間、空間が丸ごと闇に飲み込まれた――