SECT.21 銀髪のヒト
祈るようなポーズでひざをついたねえちゃんと、眠るように壁にもたれかかっているアレイさん、それにじぃ様は杖をついたまま、それぞれ出迎えてくれた。
「ラック!」
「おお!」
「ただいま!」
にこっと笑うと、ねえちゃんはこちらに向かって駆けてきた。
「よかった……!」
躊躇いもせずにきつく抱きしめてくれた。
ねえちゃんの髪からは甘い香りがした。
「えらく早いな」
「これまでの歴史の中で最短やも知れん。実に恐ろしき少女よ」
じぃ様とアレイさんもこちらに来た。
「アガレスはなんとおっしゃった?」
「困ったら呼んでいいって。コインも、ちゃんと。ほら!」
右手の中に握り締めたコイン。心なしか今までよりも熱を持っている気がした。
「じぃ様より少し若い感じの紳士で、シルクハットをかぶってたよ。すごく優しいヒトだった。でも、話が難しくて半分も分からなかったよ」
「……それでよく契約できたもんだ」
「この子の心は真っ白だもの。きっと地震の悪魔アガレスもこの子から何かを感じ取ったのよ」
「たったの半日で帰ってきやがって」
「え? 半日? 半日もかかったの?」
アガレスさんと話していたのはせいぜい5分か10分ほどだったと思ったのだが。
「向こうとこちらでは時間の流れが違うのよ」
「向こうって?」
「悪魔たちがすむ世界。俗称では地獄と呼ばれる場所。私たちは普段向こう、彼らは魔界と呼ぶわ」
「じゃあ、ねえちゃんたちは何日後に帰ってくるか分からないおれをずっとここで待ってくれてたの?」
ねえちゃんは困ったように微笑んだ。
「だって心配だったんですもの」
「ありがとう!」
「さあ、おなかすいたでしょう。ケーキも用意しなくてはいけないわ」
「やった!」
ねえちゃんは細い鎖を取り出して、アガレスさんのコインを自分の右手首に固定した。
「ねえちゃん。ねえちゃんの時はどのくらいかかったの?」
「私がクローセルと契約したときは、大体1週間くらいかしら。契約はすぐ済んだのだけれど、なかなかクローセルが帰そうとしなくて」
その時のことを思い出したのか、ねえちゃんは大きくため息をついた。
「1週間?」
「アレイのときは、もっとかかったわよ。マルコシアスと契約に行って、帰ってきたのは3ヵ月後だったもの」
「3ヶ月!」
「剣の稽古をつけられていたんだ」
「すっごおい」
「帰ってきた時はぼろぼろだったわ」
アレイさんはむっつりと黙り込んでしまった。
「でも、ちゃんと帰ってきた。それだけですばらしいわ」
「帰ってこないヒトもいるの?」
「……」
ねえちゃんの金の瞳が揺らいだ。
アレイさんも目を背けたように見えた。
じぃ様が代わりに答えてくれた。
「帰って来ぬ者のほうが多い。大体9割は契約しようとした悪魔に囚われ、一生を向こうで終える。もしくは……命を落とす者も多いのだ」
「!」
「ゼデキヤ王はレメゲトンの称号を与えることを躊躇なさるの。本当に王の信頼を得られない限り悪魔との契約まで漕ぎ着けないわ。ゼデキヤ王が即位されてから、悪魔との契約で命を落とすものは出ていない。それはひとえに王の判断力と人を見る力が優れているおかげよ」
「帰って来なかったり命を落としたりしたのは昔の話だ。近年では堕天以外のコインは使わないことになっている。扱いづらいコインをわざわざ起こすこともあるまい」
『だてん』という言葉に聞き覚えがあった。
「だてん……クローセルさんも同じことを言ってたよ。だてんだから翼があるって。だてんって、なあに?」
「天使から悪魔になった人たちを、堕天と呼ぶのよ」
「クローセルさんも、マルコシアスさんも、アガレスさんも?」
「そうよ。他にもたくさんいるわ」
「フラウロスさんは?」
その瞬間にねえちゃんの表情が強張った。
「フラウロスは違うの。彼は最初から悪魔よ。オレンジの大きな豹の姿で、恐ろしい地獄の業火を操ると言われているわ。焼き殺されたレメゲトンも数知れない。アガレスとは比べ物にならないほど苦労するはずよ」
「だから今回のゼデキヤ王の考えが理解できんといっているんだ」
「怖い悪魔さんなんだ」
想像もつかなかった。自分の知っている悪魔さんはみんな優しくて素敵なヒトばかりだから。
「それだけゼデキヤ王はラックの能力をかっているということね。まあ、でもそれはまだ先の話よ。とりあえずはアガレスと契約した事でレメゲトンとしての地位を確立できるわ。フラウロスと契約するのは何年も先でいいの」
「そういうものなんだー」
「当たり前だ、このくそガキ」
「ガキって言うな!」
アガレスさんには魂が3歳くらいって言われたけど。
「そう何度も命を賭けられてたまるか」
吐き捨てるようにアレイさんは言った。
アガレスさんに会いに行く直前のことを思い出す。
そうだ、アレイさんは『死ぬな』って言ったんだ。『帰って来い』って言ったんだ。もしかして、とても心配してくれていたんだろうか。
そうなのかなあ。
じっとアレイさんの紫の瞳を見つめたけれど、何を考えてるかはぜんぜん分からなかった。
「何を見ている」
「もしかして、心配してくれた?」
「していない」
「何言ってるの、もちろんしてたわよ。たとえあなたが3ヶ月帰って来なくてもアレイはずっとこの部屋に居たでしょうね」
アレイさんはまたそっぽを向いてしまった。
「でも、本当よ。今回は半日で戻れたけれど、次もそうだという保証はない。むしろ今回が歴史的に見ても稀有なくらいに簡単だったのよ」
ねえちゃんは真剣な表情で諭した。
「本当によかったわ、無事に帰ってきて」
「うん、分かった。悪魔さんと会うときは、すごく気をつけるよ」
真摯な顔で頷くと、安心したように微笑み返してくれた。
「じゃあ、戻りましょう。少し遅くなったけれど昼食よ」
「はあい」
じぃ様の杖でもう一度地上に戻った。
太陽は天辺を少し過ぎたところだった。神殿を出て少し歩いたところにある別館に入った。そこは普段お客様が謁見まで待ったり何日も泊まったりする建物らしい。
昼食のために席につくと、目の前の大きな窓からゼデキヤ王と昨日謁見した建物の全景が見渡せた。
おなかがすいていたので昼食を黙々と口に運んで――右手だけの食事にもかなり慣れてきた――すべて食べ終わってからふう、と一息ついた。
「まんぷく!」
「よかったわね」
最後に出てきた小さなチョコレートケーキまで全部平らげてから、椅子の背もたれに寄りかかった。
「今日は他にすることないの?」
「そうよ。それどころかこれから1ヶ月間何もないわ。普通悪魔との契約には半日どころじゃなく時間がかかるもの、ゼデキヤ王から指し当たってそれだけの期間が与えられているのよ」
「あれ? そしたらおれはその間どうしたらいいんだ?」
「アガレスと話しなさい、いろんなことを。彼は博識よ。彼の言葉は難しいかもしれないけれどとても勉強になるはずだわ」
「わかった」
「あとは、アレイとマルコシアスに稽古をつけてもらいなさい。あなたは、左手が使えなくても戦える方法を学ばなくてはいけないわ」
「……わかった」
左手がもう一生動かないことは分かっていた。銀髪のヒトから受けた傷で自分は左手を完全に失ったのだ。
「明日の午前中にはお医者さんが抜糸してくれるそうよ。午後にはもう包帯なしで動けるでしょう。そうしたら、まずは買い物にでも行ってきなさい。市場に行きたいんでしょう?」
「行っていいの?」
「今日がんばったご褒美よ。アレイ、一緒についていってあげて」
「何で俺が」
「一人で町に出すわけには行かないでしょう」
「ねえちゃんは行かないの?」
「私は用事があるのよ、ごめんなさいね」
ねえちゃんは残念そうに言った。
寂しい。
そんな顔でねえちゃんを見上げると、ねえちゃんは頭をなでてくれた。
「大丈夫よ、アレイが連れて行ってくれるから」
「うん、わかった!」
「ガキのお守りなんか真っ平だ」
アレイさんはそっぽを向いてしまった。
「あら、何を言ってるのかしら。一日でもラックと遊びに行けるのを許した私に感謝なさい」
「っ!」
アレイさんはねえちゃんを睨みつけた。
「だいたい相手がラックじゃなければあの時とっくに気づいてるわよ?これ以上隠す理由なんてないと思うけれど?」
「若造が……」
じぃ様はふん、と鼻を鳴らした。
「くそっ……」
アレイさんはまたそっぽを向いてしまった。
心なしか頬が色づいている気がする。いつも無表情なアレイさんにはとても珍しいことだ。
そんなに自分と買い物行くのが嫌なんだろうか。
「アレイさんおれのこと嫌いなんだろ!」