SECT.19 アレイスター=W=クロウリー
悪魔の召還儀式はできれば慣れた服と慣れた武器を身につけているほうがいいと言われた。
とは言ってもいつものような短衣ではパラディソ・ゲートの中に入れないらしい。
仕方がないので着替え用にいつもの服をバッグにつめて、今日もヨハンのお下がりで出かけることになった。
今日もアレイさんが一緒に来てくれた。初めて会ったときと同じ闇色のマントを身につけていた。
確かにリコリスが言っていたように、アレイさんはミメウルワシかった。
「何だ?」
あまりにじろじろ見ていたらアレイさんに不機嫌な顔をされたけど、それはいつものことだ。
「アレイさんは綺麗だね」
「は?」
眉間にきゅっとしわがよる。
アレイさんの闇色マントと口の悪さとこの表情はあんまり好きじゃない。
「いったい何を言い出すんだ。とうとう頭がイカれたかこのガキ」
「おれはいつだって本気だし思ったことしか言わないよ」
「だったらもともとイカれてんだな。いっぺん殴ったら戻るんじゃないのか?」
「殴られたら殴り返すからね」
唇を尖らせて睨み返した。
するとアレイさんは忌々しげに呟いた。
「……お前はだんだん生意気になっていくな」
「アレイさんのせいだよ!」
「本当にそうだわ」
ねえちゃんはくすくす笑った。
昨日の夜言ったことなんて気にしてないように……でも、どこか少しだけよそよそしい感じがした。
なぜだろう。ねえちゃんはなぜあんなふうに自分を遠ざけるようなことを言ったんだろう。
こんなに近くにいるのに、すごく遠く感じる。昨日まではずっと隣にいたのに。
「今までそんな風にラックと言い合える相手はいなかったものね」
「……」
「よかったわね、ラック。アレイだけじゃないわ、老師様もきっとあなたのことを気にかけてくれるわ。ゼデキヤ王も、漆黒星騎士団長のフォーチュン侯爵もお力になってくれることでしょう」
「ねえちゃんも一緒にいてくれるんでしょう?」
急に不安になった。
「そうよ。絶対にあなたを守ってあげる。何があっても、必ず」
「ほんと?」
「ええ。あなたが望む限り」
どうしてだろう。こんなに近くに別れの足音が聞こえる。
昨日から唐突に。
すごく不安なんだ。
一体何があったんだろう。
「大丈夫よ、ラック。」
だいじょうぶっていう言葉にはどのくらいの心が詰まっているんだろう。
寂しさとか強さとか優しさとか、いろんな感情を全部合わせてぎゅっとつめたその言葉はこの不安を消し去ってやくれないだろうか。
馬車は神殿に到着して、目の前の大理石で出来た大きな建物に圧倒された。
これから起こることが不安なんて、そんなこと今まで思ったこともなかったのに……
重い扉を衛兵が開いて3人で神殿に足を踏み入れた。
大きな教会のような建物だった。天井には虹色のステンドグラスが煌いていて、まっすぐ見つめた先には王家の紋章を象った天窓が光を与えていた。
「おはよう、じぃ様」
「早かったな」
じぃ様はその広いホールの中央で待っていた。
「老師、おはようございます」
ねえちゃんとアレイさんと3人でじぃ様のところに行くと、じぃ様は持っていた杖でどん、と床を突いた。
「?!」
その瞬間、その部分の床がずずず、と重い音を立てて沈み始めた。
「うわあ!」
「地下の部屋に入るだけよ」
「すっげえ!」
目の前を床の線が通り過ぎていき、みるみる地上の光が遠ざかった。
数秒後、広い空間が目の前に広がった。
薄暗いのは明かりが壁に灯されたランプの光だけだからだろう。大理石が敷き詰められた床には一面にびっしりと真っ黒な模様が記してある。
「……!」
「ここは悪魔と契約を結ぶ儀式に使う部屋だ」
「歴代のレメゲトンがここで幾人もの悪魔と契約を交わしてきたのよ」
コツリ
静かな地下の空間に靴音が響いた。
「動きやすい格好に着替えなさい。すぐに始めるわよ」
「わかった」
ねえちゃんに手伝ってもらっていつもの服に着替えた。
その間中アレイさんは居づらそうにそっぽを向いていた。
「お前たちは……着替えるならもっと隠れてやれ!」
「あら仕方ないじゃない。他に場所がないんですもの」
アレイさんは珍しくねえちゃんに対して怒鳴っていたが、老師ははあ、と大きなため息をついただけだった。
紺のアンダーウェアにワーキングパンツ、淡いグリーンの短衣、ベルトには短剣を差した――図らずも、初めて銀髪のヒトと会った時と同じ格好だった。
もう左手は動かなくなってしまったけれど。
始まりの朝のことを思い出すと、少し落ち着いた。
いつものようにアパートを出て、灰色の石畳を駆け抜けてマスターに挨拶して、ねえちゃんにお金をもらってケーキ食べるつもりで……
「ねえちゃん」
「なあに?」
「今日さ、帰ったらケーキ食べたいな」
思い出したらケーキを食べたくなった。
「いいわよ。一番好きなクリームたっぷりのフルーツケーキを用意するわ」
「やった!」
よし、これで気合が入ったぞ!
右腕だけで伸びをしてから、じぃ様の元へ向かう。
「準備はよいか?」
「うん」
「召還した悪魔の言葉に耳を傾け、その問いに答え、血で契約をせよ。力とはすなわち意志の力。どれだけ強く自分を信じられるかだ」
「……よくわかんない」
「とにかく自らの意思をしっかり持て。迷うな。じぃ様がお前に言えるのはそれだけだ」
「わかった。そうする」
「ラック、悪魔さんの話をちゃんと聞いて、きちんと答えるのよ」
「うん」
もっと他に言いたそうな顔だったけれど、ねえちゃんはそれ以上何も言ってくれなかった。
じぃ様の導きで、一つの魔方陣の前に立った。
この模様は見覚えがある。ねえちゃんが以前戦いでクローセルさんを呼び出した魔方陣ととてもよく似ている。
その中央に描かれているのはまるでつぼが笑ったようなマーク――第2番目の悪魔アガレスのコインに記された紋様だ。
アガレスさんはなぞなぞが得意、地震を起こす力を持っている。口の中でそう反芻してから一歩踏み出した。
「おいくそガキ」
カチンと来て一瞬迷ったが、振り返った。
アレイさんの紫色の瞳は、不安の色を浮かべていた――初めて見るその色に驚いて立ち尽くす間にアレイさんは自分のほうに近寄ってきた。
「なあに?」
アレイさんが近くに立つと、自分はかなり見上げなくてはいけない。そうするとなんだかアレイさんが遠くなったように感じるのだ。
近づくと少し遠ざかるのって、矛盾しているなと思う。
首をいっぱいに見上げていると紫の瞳が近づいてきた。
びっくりして動けないでいると、アレイさんの肩が額に触れた。気がつくと腕は自分の背中に回っていて、大きく腕の中に抱きかかえられたような格好になっていた。
いったいどうしたんだろうと動くほうの右手でアレイさんの背に触れると、左耳のすぐ近くで、アレイさんのバリトンの声が響いた。
「死ぬなよ。帰って来い……くそガキ」
くすぐったいくらいに近くで囁かれた。
その時、微かに唇が左側の頬に触れた気がした。
そのまましばらくそうしてアレイさんの腕の中に納まっていた。なんだか大きな腕で守られているような気がしてすごく落ち着いた。
「だいじょうぶだよ、アレイさん。ちゃんと帰ってくる」
つぶやくと、安心したように、でも名残惜しそうにアレイさんは自分を解放した。
その向こうでねえちゃんは頬をひきつらせていたが何を言うこともなかった。
「その魔方陣の中に入り、悪魔の名を唱えるとよい」
じぃ様が指したサークルの中に足を踏み入れた。
三角を二つ重ねた中にアガレスさんの象徴の紋様が描かれた魔方陣。
「んじゃ、がんばるよ!」
3人に笑いかけると、アガレスさんのコインを右手でぎゅっと握り締めて叫んだ。
「アガレス!!」